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野鳥特集その2では、カ行の「か」で始まる名前の野鳥をご紹介しました。「か」は完了したと思っていたのですが、他の号の訂正と共に追加で1種類ご紹介させて頂きます。
第258号・259号でスズメの群れに混ざって一羽だけ「ホオジロ」かな?とご紹介しました野鳥ですが、ご覧頂いている専門家の方から「カシラダカではありませんか」と連絡を頂きました。
カシラダカはスズメ目ホオジロ科の野鳥で、全く見当違いでは無いようですが、これまでの鴨川真発見記では初登場となりました。新たなお宝を知らないうちに手に入れていたようです。広辞苑の解説にも一見ホオジロに似るとあります。
スズメ目ホオジロ科の野鳥。小型でスズメくらい。一見ホオジロに似るが、腹が白く頭頂の羽毛を立てることがある。シベリア北部で繁殖し、日本に大群をなして渡来する。(広辞苑より)
※ カシラダカではなく「ヒバリ」とご指摘頂きました
第265号で修正しています。
<ホオジロ改め“カシラダカ”? いやいや「ヒバリ」でした>
キジバトの解説文にも冒頭に「ハトの一種」とありますので、先に「ハト」の項目の解説を見てみます。
ハト目ハト科の鳥の総称。ほとんど全世界に分布し、約300種。全長20~80センチメートル。嘴は短く厚みがあり、体はずんぐりしている。日本にはカラスバト・キジバト・アオバトなどが分布。また、ヨーロッパ・中東・南アジア原産のカワラバトが家禽(かきん)化され、愛玩用・観賞用・食用などの多くの品種がある。
それが野生化し、都市周辺などに多く、ドバトと呼ばれる。(広辞苑より)
皆さんが良く目にされるハトは、外国原産のカワラバトが家禽化した後に野生化するという経過をたどった事がわかります。「愛玩用・観賞用・食用」として飼われたハトが野生化して繁殖し、マンションなどに巣をつくり迷惑とされている。これも人間が招いた事とはいえ、えさやりで更に増やすことは慎みたいと思います。
<カップル成立>
<繁殖中>
<排水路から続々と>
<鴨川で集団水浴び>
<レース鳩もドバトの仲間>
(写真提供:公益財団法人日本野鳥保護連盟京都)
それでは、キジバトの解説です。
ハトの一種。翼の色は大体雌雉(めすきじ)に似る。「ででっぽうぽう」と鳴く。主に田園地域に多く市街地にも現れる。(広辞苑より)
キジバトは、ドバトのように様々な模様の個体が交配を繰り返して見せる個々の個性的な模様ではなく、「雌キジに似る」とあるように決まった模様なので、見た目で「キジバト」と簡単に判断できます。
ウロコのような体の模様で、案外どこにでも姿を現しますが、私は目の前で鳴いているのを聞いた事がありません。何処からともなく聞こえてくる「ででっぽうぽう」の泣き声が聞こえたら、この姿を思い出してあげてください。
<草むらで目立つ キジバト>
<水辺にもやってきます>
<石の上でも案外目立ちます>
<枯れ草が混ざると保護色に>
<砂利の上でも正面からは保護色 小枝を運んで巣作り真っ只中>
キセキレイは単独での項目がありました。セキレイの仲間でまとめての項目はありません。
スズメ目セキレイ科の鳥。大きさはスズメぐらい。背はねずみ色。胸・腹は黄色。眉斑は白色。オスの夏羽では喉が黒色。水辺に多く、市街地でも見かける。常に尾を上下に動かし、飛翔は波状。(広辞苑より)
キセキレイも鮮やかな黄色が目を引きます。併せて常に尾を上下するので、チドリの種などのように完全保護色の野鳥に比べて見つけるのか容易です。
<遠目にも鮮やかな黄色 キセキレイ>
<横から見ても黄色が目立ちます>
説明にもありますとおり、前に進む時の飛翔は波状ですが、今回ご紹介する飛翔は飛び上がって急降下、辺りに飛ぶ虫を「舞い」を舞うように捕獲していました。
<何度も同じ場所から>
<飛び上がって>
<急降下>
カモの一種。マガモよりやや小形。雄は背面が黒色で頭に冠羽があり、腹は白色。雌は全体に褐色。秋、北方から渡来し、湖沼や大きな川に群棲。巧みに潜水し、水底の貝や甲殻類を捕食する。(広辞苑より)
私が野鳥に強い関心を持つキッカケとなったのが、この「キンクロハジロ」です。目の前で水の中に潜る様子を見て、これはなんという名前の野鳥かと知りたくなった野鳥です。なんといっても「カモ」の一種と知って驚きは倍増しました。
潜るカモがいるなんて思いもしませんでした。なんせカモの種類がこれほど沢山あるなんて知りませんでしたし、「カモ」は「カモ」でしょうという認識しか持ち合わせていませんでしたので。オスの白黒くっきり分かれた配色と金色の目が見るものを魅了します。
<オスとメス>
<オスとオス>
※左の写真は初期のカメラ 右の写真は現在のカメラ
<正面からメス>
<腹だしポーズ オス>
<初めて見た感想「潜ってる!これ何なの?」>
(醍醐天皇が神泉苑の御宴の折、五位の位を与えた故事による名という)中型のサギ。背は緑黒色で、翼・腰・尾は灰色、後頭に二本の細長い白羽あり、額・頬・下面は白色。樹上に群棲・営巣、夜飛びながら「ごぁっ、ごぁっ」と鳴く。世界中の温帯から熱帯に広く分布。幼鳥は体に斑点があり、星五位(ほしごい)という。(広辞苑より)
サギの仲間の中で首が比較的短く、背の緑黒色は「アオサギ」よりの青っぽく見えます。夜行性だけあって目の色は赤く、夜に写真に収めると目が光って写ります。以前知り合いが山の中の取材で宿泊した時に、夜中に「ごぁっ、ごぁっ」と集団の鳴き声を聞いて少し不気味だったと話してくれた事を思い出します。
<落差工の下で>
<ダイサギと背中合わせ>
<野草の向こうに後姿>
<暗闇に光る目>
カモの一種。小形で、雄は頭が栗色、目から上顎に至る白い縁のついた緑色帯がある。雌は暗褐色。冬日本各地の水辺に見られ、長く日本に留まる。(広辞苑より)
「コガモ」って子供のカモなの?と聞かれる方もおられますが、コガモという種類です。オスの特徴は解説にあるとおり「目から上顎に至る白い縁のついた緑色帯」です。
この姿を見ると「黒覆面の謎の剣士 ゾロ」を連想するのは私だけでしょうか?
<コガモのオス>
<メスは特徴が・・・>
<覆面カモ?>
<一眠り>
<コガモの群れ>
キツツキの一種。日本のキツツキ類中最小でスズメぐらい。背面と翼は黒地に白色の細かい横斑、下面は汚白色に褐色縦斑がある。雄は後頭の両側に小さな紅色斑がある。(広辞苑より)
「コ」がつくからといっても子供ではありません。その体が種類の中で小型だからです。キツツキの中で最小ですが、木をつつく行為は他と同様です。鴨川沿いの木の幹を移動しながらつついている姿は京都土木事務所の会議室の窓からも度々観察させて頂いています。
<コゲラはどこだ!>
<文字通り 木をつつく> 振りかぶって
→ くちばしを打ち込む
→ くちばしを抜いて
→ 振りかぶる の繰り返し
コウノトリ目サギ科の鳥。カラスより少し大きく、全長約60センチメートル。全身純白で、いわゆるシラサギの一つ。足指は黄色で、繁殖期には後頭に長い冠羽、肩から長い蓑毛(みのげ)が伸び、美しい飾り羽がそろう。竹林・松林などに集団で営巣・繁殖。川や湖沼で小魚を捕食する。(広辞苑より)
「コ」の説明は先ほどと同様です。アオサギなどの大型のサギがゆったりと獲物を狙っているのに比べて、コサギは忙しく動き回って小魚が飛び出したところを捕獲する行動が多く見られます。「は、いそがし。は、いそがし」と言っているように見えます。よく歩き回って水面上に黄色い足指を見れば「コサギ」と判断できます。
<黄色い足指を振動させて>
<は、いそがし。は、いそがし。>
<時には水際から落ち着いて>
<レースをまっとった様な背>
チドリの一種。イカルチドリに似て小形。背は褐色で腹は白い。海岸・河川・湖畔などにすむ。日本には夏鳥として渡来、冬に南に渡る。(広辞苑より)
イカルチドリの紹介の際に広辞苑での単独項目が無かったため、チドリの解説と併せてコチドリのご紹介をさせて頂きました。コチドリは単独で解説がありましたので、その解説のみ紹介させていただきます。詳しくは「あ行」イカルチドリをご参照ください。
<コチドリ>
なんだか広辞苑の編集者の気持ちが少し分かった様な気になりながら、採用用語はどうやって決定するのか?ますます分からなくなって少々混乱気味ながら今回はここまでとしたいと思います。次回「さ行」から再開です。
平成29年2月9日 (京都土木事務所Y)
鴨川の出町以北の昔の写真をあまり見たことが無かったので、この辺りの写真が無いものか知り合いに尋ねていたところ、ある方から2004年と2006年に北大路近辺の昔の写真を集めた写真展が大谷大学で開催された事を教えてもらいました。
<2004年昔の写真展>
<2006年昔の写真展>
当時作成された展覧会のパンフレットを見せて頂くと、鴨川関連の貴重な写真も多く見受けられました。早速大谷大学へ連絡を入れ「鴨川真発見記」に掲載したい旨伝えると、個人所蔵の写真が多く連絡先が現在も繋がるか確認して頂ける事になりました。
連絡先を教えて頂いて、個々に掲載が可能か確認しようと大谷大学からの返事を待っていると、大学側で掲載希望写真の掲載OKの確認までして頂いて、写真の元データを提供して頂きました。
今回は、その貴重な写真を通じて昔の鴨川を振り返ると共に、現在の鴨川と比較してご紹介したいと思います。
昔の写真といえば、京都土木事務所としては昭和10年の大水害が一番に挙げられます。これまでも鴨川真発見記でその様子をご紹介してきましたが、三条大橋から下流の街中が中心で北大路近辺がどうなっていたのか写真資料が少ない状況でした。
最初にご紹介するのは、この時流失した中賀茂橋の様子です。当所に残されている中賀茂橋の様子は、完全に流失した橋が濁流に飲み込まれて見えなくなってしまっている様子ですが、今回ご紹介するのは濁流に飲まれて流失していく中賀茂橋と、流れが治まって残された残骸があらわになった様子です。
<1 刻々と流されゆく中賀茂橋>
【川村周仁さん提供】
<2 濁流に完全に飲み込まれました>
【京都土木事務所蔵】
<3 残骸があらわに>
【京都市歴史資料館蔵】
<4 現在の様子>
中賀茂橋は鴨川と直角に交差して架かっていましたが、北大路橋は北大路通りが東西に真っ直ぐ貫いていますので、北から南東に斜めに流れる鴨川とは斜めに交差しています。
当時の地図を覗いてみると、西から東を望むこれらの写真の正面は現在京都府立大学のグラウンドになっていますが、当時は府立植物園の敷地で「京都植物園運動場」であった事がわかります。
<中賀茂橋位置図>
続いての写真は、増水した北大路橋を上流から見た写真ですが、先程の中賀茂橋の位置を考えると、北大路橋の手前に中賀茂橋が写っているはずですが、流失した後のようです。川の水が引き始めて橋の上や河川敷でその様子を傘をさして眺める人の姿があります。
川の中には上流から流されてきたのか、砕いたような石が堆積しています。東岸の北大路橋には流木や土砂が橋脚に引っかかっているようです。
個人的に気になるのは、東詰め北に立っている樹木です。現在は自然生えの「ヤマザクラ」が同じような場所に立っていますので、お近くにお寄りの際はご確認ください。
<北大路橋西岸上流より>
【京都市歴史資料館蔵】
<現在の様子 冬>
やれやれ水が治まったと川の傍にも人が集まったようですが、その少し前の北大路通りはどんな様子だったのでしょうか。
北大路通りの商店街も冠水して自動車がその中を走っていきます。写真の中にはズボンの裾をまくっている人が見えます。これだけ冠水すると長靴ではかえって危険です。濡れてもいいので“かかと”のある履物で非難してください。
<北大路水没1>
【堀口大学堂・川村周仁さん提供】
<北大路水没2>
<現在の様子>
この大水害をキッカケに昭和11年から順次進められた大改修の様子も展示されていました。
川底を約2m掘り下げて、平常時に水が流れる水際に石積みで護岸を造っていきました、写真に写っているのは、掘り下げた時に出る土石をトロッコに乗せて運び出す機械でしょう。人の手でこのバケツのような容器に土や石を詰め込んでこの装置に乗せたのでしょうか。
加茂街道となっている鴨川の堤防も嵩上げされて、東側の家屋は2階部分しか見えていません。
<加茂街道沿いの鴨川大改修工事の様子 1 昭和14年頃>
【上下写真共に 京都市歴史資料館蔵】
<加茂街道沿いの鴨川大改修工事の様子 2 昭和14年頃>
写真2の手前に転がっているのは、護岸の石積用の石です。この写真を見て驚きを伴って気がつく事が2点あります。一つ目は川の水がとても少ないことです。
当時は農業も盛んで、上流から農業用水が多く引き込まれていたこともありますが、降った雨も田畑から地下へ浸透していたことも原因かと思います。
二つ目は、加茂街道沿いの景色です。現在ではニレ科の大樹が立ち並び、その向こう側の景色は見えない程に大きくなっています。当時は背の高い松だけが立ち並んでいます。
実はこの風景こそが、昔の鴨川写真を探し求める一番の動機の答えだったのです。現在の加茂街道沿いに立ち並ぶニレ科の大樹の樹齢はどのくらいで、いつからこの風景・景観が形成されたのかということです。
この写真の説明に「昭和14年頃」とありますので、今から77年前には影も形も無かったことになります。70年余りの時の流れが景観を大きく変えたようです。あなたは「昔と今」どちらがお好みですか?
<現在の様子 秋>
冬になるとニレ科の大樹は葉を落とし、松の存在がハッキリとわかる様になります。
昭和14年の頃にそびえていた松なのか、その後に植えられた松なのかわかりませんが、加茂街道沿いに松は健在です。
<現在の様子 冬 ニレ科の大樹は葉を落とし透けて見える並木>
遠目に見ても明らかに背の高い松ですが、もっと近くでその高さを実感する写真もありました。同じく昭和14年頃のものですが、手前に電柱の2倍以上の高さの松並木になっていたようです。
<立ち並ぶ松 昭和14年頃>
【西川忠樹さん提供】
<現在の様子 冬>
<現在の様子 夏>
現在は公園としても整備され、人々の憩いの場となっている北大路近辺ですが、当時の人々と鴨川の関わりが垣間見られる写真がありました。
工事の最中ということもあって石がごろごろ転がっています。通学する学生でしょうか、ひたすら歩いているようにも見えます。その手前には和服姿の女性に抱かれてカメラを見つめる子供の姿があります。
よそ行きの洋装でベレー帽を被る姿に何かの記念写真かと思われます。戦前も鴨川で「記念写真」。この6年間鴨川で様々な写真を撮り続けてきた私の興味を引く一枚です。
<鴨川で記念写真 昭和14年頃>
【西川忠樹さん提供】
<現在の様子 冬>
ここまで、鴨川の西から東を眺める風景はありませんでしたが、その象徴的な風景の写真がありました。同じく昭和14年頃の写真です。比叡山を目の前に望む風景で、この辺の護岸の石積は完成しているようです。
鴨川沿いの東側に樹木が並んでいます。これらが何の種類かわかりませんが、桜や楓であれば明治38年に植樹された「師範桜」なのかもしれません。
樹木の向こう側に建物が見えません。現在鴨川東岸堤沿いは住宅地で建物が連なっていますが、当時はどうだったのでしょう。これがどこからの風景か見当をつけてみました。
<比叡山遠望 昭和14年頃>
【西川忠樹さん提供】
<現在の様子 冬>
昭和10年の大水害以前の様子はどうだったのでしょう。大正9年頃の葵橋上流から北西を望む写真がありました。学生帽を被った若者が鴨川で記念写真を撮ったようです。
鴨川の流れは川の真ん中に細く流れていて、両岸は今の寄州とは様相が違いゴロゴロと石が並ぶいわゆる「河原」です。
この写真でも、現在大樹の木陰が出来るニレ科の樹木の姿の無い松並木道だった事かわかります。
<葵橋上流東岸から北西を望む 大正9年頃>
【日下部有信さん提供】
<現在の様子 冬>
<現在の様子 秋>
今回は、昭和10年の大水害を中心に戦前の鴨川の様子をご紹介させて頂きました。次回は戦時中の驚きの鴨川利用や戦後の鴨川の変化をご紹介したいと思います。
それにしても、大正9年頃から100年近くの時間が作り上げた景観に脱帽です。さて、100年後の鴨川はどうなっているのでしょうか。街中の自然的風景は人の手による影響が大きいです。あなたはどんな100年後を想像されますか?
平成29年1月26日 (京都土木事務所Y)
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