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第263号に引き続き、大谷大学で開催されました「昔の写真展」で展示されました北大路界隈の鴨川の写真と現在の写真を比較しながら昔の鴨川を振り返りたいと思います。
前号の戦前の様子に続いて、戦中・戦後の鴨川の変遷です。戦中ということで、鴨川の川原では戦時教育としての軍事教練が必修となっていました。立命館中学の賀茂川での渡河訓練の様子です。
<賀茂川渡河訓練風景 昭和18年頃>
【立命館中学・高等学校提供】
<現在の様子>
当時の中学といえば現在の高校生です。ヘルメットを被って身を伏せながら構えた銃の先には仮想敵国が見えたのでしょうか。現在の平和な鴨川からは想像ができない光景です。この平和を未来に繋ぐ想いを強くさせる写真です。
その軍事教練を観戦する陸軍少将は馬に跨っています。北大路橋の上にも多くの観戦者の姿が見えます。背景には大きな松の木が見えています。昭和10年の水害時の写真では確認出来ませんでしたが、相当に大きな松がそびえたっています。
<訓練を観戦する館少将 昭和18年頃>
【立命館中学・高等学校提供】
<現在の様子>
鴨川堤に集合した府下中等学校野外総合演習後の京都府知事による閲兵の様子です。鴨川が戦場への入り口になっていたようで複雑な気持ちにもなります。
<賀茂川での閲兵式 昭和18年頃>
【立命館中学・高等学校提供】
<現在の様子>
現在の紫明通りは、終戦直前の昭和20年には建物疎開(強制立ち退き)により拡張されました。それ以前の様子です。写真の真ん中に流れているのは、東から堀川に向かってくる疎水分線です。疎水分線の南側(写真右側)の建物が立ち退きとなって道路幅が広げられました。
<紫明通り 大正15年又は昭和18年 2種の記載あり>
【教育大学同窓会提供】
その後、流れの向きを逆にして暗渠化し、鴨川へ街中の雨水を排水する都市下水として利用されています。現在堀川へと流れ込む小川は新たに開削された水路です。
<現在の様子 写真の歩道約1/3が当時の流れ>
古都京都は、激しい空襲に遭うことなく終戦を迎えました。それから10年が経過した昭和30年の北大路橋東詰めの加茂街道の様子です。自動車の往来は無く自転車、バイクの専用道路の様になっていて、ゆったりと走行出来ていました。
北大路橋には市電が走っていますが、加茂街道に信号機は見当たりません。電車が通る時には道を譲る仕組みなのでしょうか。現在東詰めの下流にはニレ科の大樹がありますが、この頃はさほど大きくありません。昭和30年からだと約60年です。60年後のこの風景を誰が想像していたでしょう。
<北大路橋の風景 昭和30年頃>
【京都新聞社提供】
<現在の様子>
この10年後、昭和40年には加茂街道の中央分離帯の様になっている場所でニレ科の大樹が倒れたようです。その時の写真が残されています。この影響で中学校は2日間休校となったそうです。
昭和40年ともなると、加茂街道にも自動車が走行しています。国産の軽自動車でしょうか。
<加茂街道の巨木倒れる 昭和40年>
【加茂川中学校提供】
先程、北大路橋西詰めで大きく育った大樹をご紹介しましたが、そのうちの一本が数年前に強風で幹が裂け、伐採した事を覚えておられる方は少ないと思います。樹齢が進むと幹が老化して強風に耐えられなくなります。大きく育てばいいという訳でもありません。
<北大路橋西詰下流にそびえていたニレ科の大樹伐採>
昭和40年頃の「志波む桜の碑」の写真です。明治38年に師範学校の教職員・生徒などが賀茂川堤に約5,000本の桜・楓を植樹した記念の碑です。
碑を覆うように植えられた二本の樹木が今では大きくなって、碑が小さく見えます。碑の奥に写っているのは、この後昭和47年に架け替えられる出雲路橋の先代の橋です。
<志波む桜の碑 昭和40年頃>
【教育大学同窓会提供】
<現在の様子>
先程の先代の出雲路橋から後を引き継いだ新しい出雲路橋の渡り初めの様子です。新しい橋の上流側には、架け替え工事中に人が渡る仮橋を歩く人が見えます。出来たばかりの橋の欄干は真っ白に見えます。
<出雲路橋の渡り初め 昭和47年>
【永田修二さん提供】
<現在の様子>
昔の写真展といっても昭和の時代までではありません。平成の時代も29年を向かえています。平成の時代の写真もあります。平成元年のころの鴨川でユリカモメ見学をする保育園児も立派に成人して、保育園の保護者になっている方もおられることでしょう。
<鴨川でユリカモメ見学 平成元年頃>
【洛陽保育園提供】
平成のはじめの頃は、ユリカモメに餌を与える事について、「ユリカモメの為になる」という考え方もありました。それを目当てに沢山のユリカモメが賀茂川に群れ飛ぶ様子を続けてご覧頂きます。
<鴨川のユリカモメ 平成6年>
<岸で憩うユリカモメ 平成6年>
【上の写真2枚共に川村周仁さん提供】
<群舞するユリカモメ>
<ユリカモメの群れ>
【上の写真2枚共に藤本秀弘さん提供】
「エサやり」がユリカモメの為にならない「自然の生き物は自然のままに」という考えのもと「エサやり自粛」が浸透してきて鴨川へ飛来する数は減りましたが、数は減っても鴨川冬の風物詩として毎年姿を見せてくれます。
ユリカモメの最近の様子は野鳥特集でたっぷりご紹介するとして、次に進みましょう。
平成10年代の初期の風景写真もご提供頂きました。ピンホールカメラで撮影された写真です。
柊野砂防堰堤の写真と、まぶしく光る夕陽の写真です。レンズの無いカメラの写真にはデジタルカメラには無い独特の味がありますね。
<柊野ダム 平成11年頃>
【松原活泉さん提供】
<デジカメの写真>
<鴨川の夕景 平成13年頃>
【松原活泉さん提供】
<デジカメの写真>
最後に時は戻って昭和30年代の北山通りの写真です。鴨川に近い北山通りかと写真データを提供頂きましたが、場所の特定作業をすると意外な場所でした。地元出身の当所職員に協力を依頼すると、手前から奥で突き当たる縦の道が北山通りだとすると、この形状の場所は紫野泉堂町しかないとの見解を頂きました。
<北山通り風景 昭和30年代>
【提供者匿名希望】
現場に行ってみると、三叉路の先には建物などで遮られて、山は全く見えません。ネットの3D航空写真で確認してみると正面の山の形が全く同じ「左大文字」の山でした。紫野泉堂町の交差点で確定です。ご興味のある方は、ネットでご確認ください。
<現在の様子>
<ネットでなくても少し離れて稜線を確認>
2回に渡って、大谷大学主催の「昔の写真展」の画像データを提供頂いて、昔と今の鴨川の様子をご紹介させて頂きました。
貴重な写真をご提供頂きました関係機関、個人の皆様、そして大谷大学の関係者の皆様に感謝を申し上げて今回の「鴨川真発見記」を終えたいと思います。「ありがとうございました」
平成29年3月8日 (京都土木事務所Y)
2017年1月から3月初旬まで、鴨川で目にした光景をオムニバスでご紹介したいと思います。
1月7日(土)は、真冬とは思えないポカポカ陽気でした。暖かい日差しに誘われて高野川から鴨川へ足を運びました。
風もなく穏やかな鴨川で遊ぶ人も多いです。その中で目に留まったお二人に 「なにをしているの?」と訊ねると、「お魚捕り」の返事がありました。近所に住む少女とそのおじさんでした。
<なにをしているの?>
<お魚捕り>
枯れ草を束ねてススキの茎を刺して作った自然の道具でチャレンジです。水に浸けるとすぐに崩れてしまったので、私も新しい仕掛けづくりを手伝って「お魚獲れるといいね」と声を掛けてその場を後にしました。
<新しい仕掛け作り>
<少し待ってみよう>
なんとも微笑ましい“さかな捕り”に、「本当に捕れたらいいね」と心から思ったのでした。
トリ年特集でもご紹介しましたイソシギですが、暖かい太陽の下近くで写真を撮ることができました。
<イソシギ>
<早い歩行>
2017雪の鴨川を紹介しました号で、最初「ホオジロ?」とご紹介しましたところ、「カシラダカでは?」とのご指摘頂きまして、その旨修正(第262号)させて頂きましたが、更に専門家の方からご指摘を受けました。
【専門家の方から】
ホオジロ?→カシラダカと紹介されていたスズメと一緒にいた鳥ですが、これはヒバリです。
カシラダカと同じで冠がありますが、カシラダカは腰が赤かっ色で目立つので、背中と腰が同色のヒバリとは少し異なります。
という訳でお詫びして訂正申し上げます。これだけ細かに見て頂いて感謝です。
<×「ホオジロ」 ×「カシラダカ」 ○「ヒバリ」>
専門家の方からご提供頂きました「ヒバリ」の鮮明な写真をご紹介しておきます。
<ヒバリ 2月滋賀県にて>
1月24日は、北山地域にうっすら雪が舞いました。北大路橋右岸上流にある自己再生のサクラも気になって、様子を見に行きました。上向きに開いた幹の中にもうっすら雪が乗っていますが、今年も3月末には♪きれいな花がさくでしょう♪。
※サクラの自己再生について詳しくは鴨川真発見記第25号をご参照ください。
<自力では立っていられない>
<それでも自己再生>
6年間鴨川を歩いてきましたが、オオバンは1年前に1羽見ただけで街中の鴨川では珍しい部類のカモでしたが、今年は複数回しかも複数羽が群れています。これまでと環境が何か変わったのでしょうか?
鴨川を見つめ続けるある方によると、競合する「カワウ」の数がいつもの年より減っているのが原因ではないかと話されていましたが、その「カワウ」が減った原因は何でしょうか?
ご存知の方おられましたらご教示ください。
<オオバンの群れ>
<8羽集う>
2月12日(日)この日は少々雲が浮かんでいますが、気持ちのよい晴れ空に覆われた鴨川を散策しました。
<気持ちの良いお天気>
鴨川沿いの梅の木では、膨らんだ蕾が一輪、また一輪と花開いていました。
<蕾が膨らんで>
<花開く>
去年の秋に実りのクルミの種を見せてくれた「オニグルミ」の木は、川の中で大きくなりすぎたので、伐採しました。「たまたま」流れ着いて実生から大きくなったのですが、「たまたま」の場所が良くなかったようです。それでも最後の秋の実りを見ることが出来てよかったです。
このオニグルミに関しましては過去の鴨川真発見記でも紹介しています。
<スッキリ? ここは・・・>
<オニグルミの切り株>
2月24日は、中国浙江省から視察団23名を受け入れました。鴨川の特徴などを説明した後で、京都土木事務所の近くで現場視察をされました。少々水位が高く飛び石に少し水が乗っていましたが、皆さん気にせず「飛び石渡り」を体験して帰っていかれました。
<所長あいさつ>
<体験「飛び石渡り」>
2月25日(土)は、いつもの様に高野川へ行ってみると、ついこの間大型土嚢積みをされていた北泉橋の工事が進捗していました。
舞台がせり出すように右岸から左岸に向けて、橋が伸びてきています。御薗橋もそうですが、橋を架ける工事の手順を近くで見ることが出来るチャンスです。
翌2月26日は久しぶりに連れ合いと2人で鴨川へ向かいました。この日はカメラを連れ合いに渡して「春」をテーマに写真を撮ってもらいました。
暖かい日差しの中を鴨川へと進むと、これまで余り気にしていなかったからか、記憶にあまりない風景に出会いました。
賀茂大橋から荒神橋の間の左岸には、大小沢山のベンチが設置してあるので、そのベンチで憩う人の姿は記憶に強く残っているのですが、石積みの護岸の傍の芝生に間隔を空けて並んで座る人の姿です。
<賀茂大橋・荒神橋間 憩い>
<キラキラ光る水面を見ながら>
北の山には雪が残っていますが、鴨川は憩いの空間です。近所の方でしょう、幼い子供を連れての散歩には鴨川公園は最適ですね。
<北の山には雪>
<母子で散歩 楽しいね>
三条大橋まで行くと早咲きの「カワヅザクラ」が咲いています。サクラが咲いて春めいてなのですが、みそそぎ川に入って遊ぶにはまだ早いのでは?
元気な子供の声が響いていました。
<カワヅサクラ開花>
<みそそぎ川で水遊び>
オナガガモの群れを眺めていると、中に一羽明らかに違う模様のカモが紛れていました。「何だろう?」と写真を撮ってもらって、後日専門家の方に見てもらいました。
すると意外な答えが返ってきました。そのカモは「オナガガモ」と「コガモ」の交雑カモでした。鴨川に初めて飛来したカモの種類かと思ったのですが、鴨川真発見記的には新顔という結果となりました。
ネットで調べてみると、同じ顔した交雑カモの画像が出てきます。「マガモ」「カルガモ」の交雑は鴨川にも沢山いますが、今回は初めての目撃です。以前何の交雑判らなかったカモを紹介しましたが、今回は正体がハッキリして少しスッキリしました。
<君の名は?>
<オナガガモ・コガモの交雑です>
3月10日(金)は鴨川一級起点の落差工の工事現場へ向かいました。流れ落ちる水が当たるコンクリート構造物の破損を直す工事を進める中で、オオサンショウウオが発見されました。
<鴨川源流雲ヶ畑の工事現場>
水の勢いで開いた穴の中からオオサンショウウオが顔を出したのを工事の作業員の方が目撃されました。当所の担当職員に連絡が入り、京都市の文化財保護課に捕獲要請し同行しました。
<補修するコンクリートに水たたき>
<この中の奥に潜り込んだオオサンショウウオ>
穴の中に入っているのに気がつかなければ、その上からコンクリートを流し込んでしまいますので、オオサンショウウオはコンクリート詰めにされてしまいます。
その中に居ると分っていて、殺してしまうのは忍びないとの作業員さん達の優しい気持ちが今回の捕獲に繋がりました。
作業員さんとオオサンショウウオの格闘の末、身柄を確保しました。
<とりあえず逃げないように>
<輸送用の衣装ケースに移動>
<サイズはそれほど大きくない>
<ほかには居ないかな?>
<オオサンショウウオ捕獲協力の記録>
急ぐ作業を長時間中断してご協力頂きました施工業者の皆さんに感謝して今回の鴨川真発見記を終えます。
平成29年3月10日 (京都土木事務所Y)
今回は野鳥特集その4として、「サ行」で始まる名前の野鳥からご紹介したいと思います。引き続き広辞苑の説明の力をお借りしてお届けします。
これまで、「鴨川真発見記」では、野鳥の色を表現する時に「赤」「青」「緑」「白」「黒」など色鉛筆の基本の色でご紹介してきましたが、広辞苑ではもっと深い表現がされています。
ここで、その表現の色がどんな色なのか、野鳥の実際の写真の色と比べて見てみるのも面白いですね。
「サ」で始まる野鳥のトップを飾るのは、「ササゴイ」です。広辞苑にもササゴイの項目が掲載されていました。
サギの一種。ゴイサギに似るが小さく、背面は暗緑青色、蓑毛(みのげ)があり下面は淡灰色。頭には長い緑黒色の冠羽がある。水辺に住み樹林に営巣。全世界の熱帯から温帯に分布。(広辞苑より)
鴨川では、ササゴイを見かけるのは珍しく、これまでに2回しか見たことがありません。説明にも「ゴイサギに似る」とあるように、遠目で見るとゴイサギと認識してしまう恐れがあるので、もしかしたらもっと遭遇しているかもしれません。
初めて見たのは、京都土木事務所のすぐ傍北山大橋下流です。この頃から野鳥の姿のチョットした違いが判断出来る「野鳥を見る目」の力が高まったように思います。
2回目は、桂川との合流点に近い龍門堰の付近で、川幅が広くかなり遠くからの目撃でした。ちょうど傍に「ゴイサギ」が居て「何か違う?」と専門家の方に確認すると「ササゴイ」でした。
背面は暗緑青色 長い緑黒色の冠羽
<初めての出会いは北山大橋下流>
<二度目は龍門堰>
<左:ゴイサギ 右:ササゴイ>
<左:ササゴイ 右:ゴイサギ>
スズメ目シジュウカラ科の鳥。小形で頭頂・のどなどは黒、背は緑黄、頬と胸腹とは白。胸腹の中央に黒色帯が一本ある。日本の林地の鳥の代表。ユーラシア大陸に広く分布。(広辞苑より)
シジュウカラは、説明にもあるとおり「胸腹の中央に黒色帯が一本」あります。川で見かける時は木の枝にとまっている姿を見上げる事が多く、この一本を見て「シジュウウカラ」と判断しています。
高野川では、一度水辺に降りている所を見ました。背の「緑黄」を見ることができました。「黄緑」と「緑黄」はどこか違うのでしょうか。
<下から シジュウカラ>
<黒色帯一本>
<緑黄>
<緑の方が強いから緑黄?>
スズメ目アトリ科の鳥。小形で、ヒバリぐらい。嘴(くちばし)が太く頭が大きい。背は暗褐色。風切羽は光沢ある黒色で、白斑がある。喉は黒色、下面は淡黄色。日本では北海道で繁殖。秋、本州以南に渡来。(広辞苑より)
シメを初めて見た時は、その配色ゆえになんとも鋭い面構えだと思いました。歌舞伎の隈取のような顔で睨まれているようです。
暗褐色
<背面暗褐色>
<頭にベレー帽の様な色合い>
<眼光鋭い“面構え”>
スズメ目ツグミ科の鳥。小形でスズメぐらい。冬、野原・田・畑などに多く、美しい。黒い翼に大きな白斑があるので俗にモンツキドリともいい、また、人を恐れないのでバカドリ・バカビタキと呼ぶ。(広辞苑より)
紋付を羽織っているような翼のデザインを見ると、人間の紋付羽織のヒントは実はここにあったのでは無いかと思ってしまいます。
それにしても、「人を恐れないのでバカドリ・バカビタキと呼ぶ」というのは、誰目線なのでしょうか。人を恐れる他の野鳥?それとも人を恐れない事が気に入らない人間?
<ジョウビタキ オス>
<ジョウビタキ メス>
<ロマンスグレーの頭>
スズメ目ハタオリドリ科の鳥。小形で、頭は赤褐色、のどは黒色。背は赤褐色に黒斑があり、下面は灰白色。人の住む土地にはほとんどどこにも棲み、人家の軒・屋根などに藁などで巣を作る。群集する事が多い。(広辞苑より)
最近スズメの数が減ったという声を聞くことがしばしばあります。鴨川や高野川を歩いていると「そうでもないけど」と思います。鴨川・高野川は禁猟区であり、鳥獣保護区という事もあってか、1年中スズメの姿をよく見かけます。
野鳥の事は皆目わからないという方も「スズメ」なら知っているという程にポピュラーな野鳥ですが、本当に細部まで理解されているでしょうか。様々な種類がいるカモと違って「スズメ」はスズメですが、一度じっくり見てみてください。
<鈴なりの スズメ>
スズメと人との距離感は近く、親しみのある鳥ということで、雀を頭に冠した動植物も多いようです。
広辞苑より
動物
昆虫 雀蛾(スズメガ)、雀蜂(スズメバチ)
魚介類 雀鯛(スズメダイ)、雀河豚(スズメフグ)雀貝(スズメガイ)
植物
雀瓜(スズメウリ)、雀野豌豆(スズメノエンドウ)、雀の尾苔(スズメノオゴケ)、
雀の帷子(スズメノカタビラ)、雀の田子(スズメノタゴ)、雀の茶挽(スズメノチャヒキ)、
雀の鉄砲(スズメノテッポウ)、雀の稗(スズメノヒエ)、雀の槍(スズメノヤリ)、
上記の動植物の実際の写真もご紹介したいのですが、著作権等の問題がありますので、皆さんネットで検索してみてください。
雀の巣も構(く)うに溜まる
(「構う」は巣を作る意)雀が僅かなものをくわえて運んでいても、ついには巣を作りあげるように、少しのものも積もり積もれば多くなる。(広辞苑より)
コツコツと少しずつ積み上げる事によって、やがて大きな成果(資料)として蓄積してきたと、ある意味自慢の「鴨川真発見記」の事とダブってしまいます。
雀の千声(せんごえ)鶴の一声
つまらぬ者の千言より、すぐれた人の一言がまさっている。(広辞苑より)
「つまらぬ者」というフレーズが少し気になります。「鶴の一声」の前には多くの声があり、それを一蹴する「すぐれた人」の一声で物事が決まるのは、何か昔の政治の気配がします。
雀百まで踊りを忘れず
幼い時からの習慣は、年老いても抜け切れない。(広辞苑より)
「雀は百歳まで生きられるのでしょうか」私のつまらない独り言でした。
セキレイの一種。大きさはスズメぐらい。おおむね体の上面は黒、下面は白。通年、河原に生息、日本特産。(広辞苑より)
セキレイの鳴き声はとても澄んでいて気持ちがいいです。そして、その飛翔の仕方にも特徴があります。スーッと上昇して、はじける様にはばたきながら下降する姿は舞を舞っているようにも見えます。停止している時に長い尾羽を上下にピンピン動かす姿は、さながらオーケストラの指揮者といったところでしょうか。自ら歌い、踊り、指揮をするオールラウンドプレイヤーと呼んでみたいと思います。
<水浴び セグロセキレイ>
<頭から>
<尾羽をピンピン>
<舞い踊る>
ようやく“サ行”を終えました。次の野鳥特集は“タ行”からです。まだゴールは見えていませんが、息切れしないように頑張りたいと思います。
平成29年3月16日 (京都土木事務所Y)
3月6日葵橋左岸下に新たな鴨川ギャラリーが設置され、その除幕式が開催されました。鴨川府民会議メンバーと地元の住民の方にご出席頂きました。
<除幕式会場 葵橋左岸>
<除幕>
<工事担当者から解説>
<出席者の記念撮影>
展示されている写真は1956年、約60年前に市電が開通した当時人や自動車は通れず市電のみが走っている写真です。
解説は、「市電の歴史」では明治45年の営業開始から昭和53年9月末の完全廃線までの経過を紹介し、「葵橋と市電」では市電が走る鴨川に架かる橋の中で最後に開通したのが葵橋で開通当時は道路としての橋は未完成で電車のみが走っていた事が紹介されています。
<葵橋左岸鴨川ギャラリー 皆さんもお散歩がてらお立ち寄りください>
その除幕式に御出席頂いた、地元住民の皆さんの中から一つ疑問???が出てきたようです。
私は当日立ち会っていなかったのですが、後日知り合いの地元住民のお一人からお電話を頂きました。
先日、鴨川ギャラリーの除幕式にご招待を頂き、集合場所が“葵橋”と聞いて地元住民の多くは“葵橋”の一つ下流の橋(出町橋)が葵橋だと思い、その場所に集合したのですが、いっこうにその気配が無いので「おかしいな」と思っていると、一つ上流の橋が葵橋だというではないですか。
<現在の“葵橋”と“出町橋”の位置関係>
古くから下鴨に住んでいる住民は、その橋は“新葵橋”で、私たちは“葵橋”に集合したのに間違っているとは納得がいかない。いつから“新葵橋”が“葵橋”に変わったのか教えて欲しいのです。とのことでした。
私も昭和10年の大水害で流された当時、現在の“出町橋”が“葵橋”だった事は知っていますが、どのタイミングで名前が変わったのかまでは把握していませんでした。
早速、知り合いの京都市の職員さんに問い合わせてみました。すると下記の情報が得られました。
(葵橋にまつわる経過)
大正 7年 出町橋完成 葵橋流失 出町橋を葵橋に名称変更
昭和10年 葵橋流失
昭和29年 葵橋再建
昭和35年 新葵橋架設(葵橋→出町橋、新葵橋→葵橋に変更)
そこで、府立京都学・歴彩館のホームページにリンクされている「京都府オーバーレイマップ」の中の「近代オーバーレイマップ」で葵橋の変遷を確認してみる事にしました。
このオーバーレイマップの中で一番古い地図が、国土地理院の明治25年(仮製地形図)です。
この地図には、橋の名称は表記されていませんが、現在の葵橋の位置に橋が架かっています。そして現在の出町橋の位置の少し下流側に、鴨川と高野川を一本で往来できる橋が架かっていたようです。
<明治25年>
仮製地形図(縮尺1/20000)明治中期 国土地理院の地図情報
<現在>
次に古いのは、国土地理院の大正元年(正式地形図)です。この地図には、明治25年同様の位置に橋が架かっていて、こちらにはハッキリと“葵橋”“出町橋”の名称が表記されています。
<大正元年>
正式地形図(縮尺1/20000)大正元年 国土地理院の地図情報
<現在>
その頃の葵橋の写真と思われる写真が残っています。府立京都学・歴彩館のHP内「京の記憶アーカイブ」にアップされている写真資料です。当時の葵祭が橋を渡るシーンですが、写真内容の説明には撮影年次不明となっていますが、備考に「旧葵橋」とありますので間違いないでしょう。
<葵祭・路頭の儀 黒川翠山撮影写真資料(旧葵橋)>
出典:府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」より
<葵祭・路頭の儀 黒川翠山撮影写真資料(旧葵橋)>
出典:府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」より
<葵祭・路頭の儀 黒川翠山撮影写真資料(旧葵橋)>
出典:府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」より
この後、大正7年現在の位置に出町橋が完成し、同年葵橋が流失し出町橋を葵橋と名称変更となります。
その4年後の大正11年の京都市都市計画基本図を覗いてみると、現在の葵橋の位置に橋は無く、一本で渡河していた橋は現在の形態と同じく鴨川と高野川で2本の橋となっています。そして、“葵橋”“河合橋”の表記があります。
<大正11年>
京都市都市計画基本図(縮尺1/3000)京都大学文学研究科所蔵の地図情報
<現在>
旧葵橋から名称を受け継いだ現在の出町橋です。その葵橋を渡る葵祭の行列の様子が同じく「歴彩館」の「京の記憶アーカイブ」に見つけました。こちらの写真説明の備考には、「葵橋(出町橋)」と記載されています。
<葵祭・路頭の儀 黒川翠山撮影写真資料(葵橋(出町橋))>
出典:府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」より
その後昭和に入り、昭和4年の京都市都市計画基本図を見ると、大正11年との違いは、現在の葵橋の位置に橋の計画線が入っています。流失した旧葵橋を再建する計画が出来ていたようです。
<昭和4年>
京都市都市計画基本図(縮尺1/3000)京都府立総合資料館所蔵の地図情報
<現在>
6年後には鴨川大水害が発生しました。葵橋を含む多くの橋が流された昭和10年の都市計画基本図と昭和4年の都市計画基本図との違いは、賀茂大橋が架橋されている点です。賀茂大橋は昭和10年の大水害では流失をまぬがれましたので、現在の賀茂大橋と同じ橋です。
<昭和10年>
京都市都市計画基本図(縮尺1/3000)京都市都市計画局の地図情報
<現在>
<葵橋流失 上流右岸より>
<葵橋流失 右岸より>
昭和10年の大水害で流失した現在の葵橋(現出町橋)が再建されたのが、昭和29年との情報ですので、その間は葵祭の行列は別ルートで下鴨神社へ向かったのでしょう。
その間橋はどんな様子だったのかを国土地理院のHPで確認してみました。昭和20年~昭和25年の間に撮影された航空写真を見てみると、細い橋が架かっていました。おそらく仮橋で29年間過ごしたようです。
葵橋が再建される1年前の昭和28年の京都市都市計画基本図では、昭和10年と同様の地図ですが、変化を見てとれます。
現在の出町橋のところの表記「葵橋」に取り消し線が入り「出町橋」と表記されています。そして計画線の入った橋には「葵橋」の表記が
<昭和28年>
京都市都市計画基本図(縮尺1/3000)京都市都市計画局の地図情報
<現在>
そして、鴨川ギャラリーの展示にもありますように、昭和31年に市電が開通しました。もしかしたらこの頃は新葵橋と呼んでいたのかもしれません。
現在の葵橋の東詰のバス停は「新葵橋東詰」ですから・・・。
道路の橋としての完成が昭和35年という事で、この時2つの橋は当初の架橋時の名称に戻りました。
“葵橋”という名称が2つの橋を行き来している間に、地元の方も完全に勘違いする状況を生み出したようです。という訳で現在の“葵”橋の位置が元々の“葵橋”の位置でした。
名称は元の葵橋に返上した出町橋ですが、葵祭の行列のコースまでは返上しなかったようです。現在も「葵祭」の行列が渡っているのは「葵橋」と思っておられても不思議では無いですね。
お電話を頂いた方は、葵祭にも関わっておられる下鴨神社の氏子総代なのですから。
<除幕式に御出席頂いた地元の皆さん>
とても「ややこしい」この説明を文字だけでするのは、聞かれる方にもわかりづらいと思いまして、今回の記事に仕上げさせて頂きました。勘違いをされていた地元にお住まいの皆様、納得して頂けましたでしょうか。
平成29年3月17日 (京都土木事務所Y)
「とり」年野鳥特集もその5「タ」行で始まる名前の野鳥で再開です。「タ」行の最初を飾るのは「ダイサギ」です。
サギの一種。大形で、全身雪白色。世界の温帯・熱帯地域に広く分布。日本でも繁殖するが、これを大陸から来るものと区別して、コモモジロあるいはチュウダイサギと呼ぶ。(広辞苑より)
ダイサギでは、その色を「真っ白」ではなく「全身雪白色」と表現されています。
いつもゆっくりと歩きながら魚を探していますが、魚をくちばしで捕らえる瞬間はスピード感あふれる動きをします。
<ダイサギ 仁王立ち>
<抜き足、差し足>
<後ろからの風を受けて>
<何処にいるのか魚さん>
シギの一種。中形で、冬期水田に多く、地中の小動物を食べる。北半球北部で繁殖し、日本には冬、渡来する。(広辞苑より)
私はタシギを鴨川で見たのは2度だけです。川底のブロックの間に溜まった泥の中に長いくちばしを差し込んでえさを探していました。水田にも似た環境にある場所だったのですね。
<タシギ 泥の中に頭を突っ込んで>
<頭じゃなくてくちばしだよ>
<ほうら>
<こんなに長いのさ>
スズメ目ツグミ科の鳥。背面は大体黒褐色で栗色を混じ、顔は黄白色で目の部分に黒斑がある。シベリア中部・東部で繁殖し、秋、大群をなして日本に渡来。かつて、かすみ網で大量に捕獲、食用にされた。なお、ツグミ科の鳥は、主として林地の地表で昆虫を採食する小鳥で、全長10~35センチメートル。日本には20種が分布。特にそのうち全長20センチメートル以上のものをツグミと呼ぶ。(広辞苑より)
ツグミはおいしい野鳥と聞いた事があります。昔、都の周囲の山村では、ツグミを捕まえて都に売りに行って収入を得ていた事もあったようです。
<ツグミ ぴょんぴょん跳ねる>
<背面は大体黒褐色で栗色を混じ>
<顔は黄白色で目の部分に黒斑>
<翼は“キオツケ”の様にピンと>
スズメ目ツバメ科の鳥。背面は光沢ある青黒色で、顔・のどは栗色、上胸に黒帯があり、下面は白色。尾は長く、二つに割れている。日本には春飛来し、人家に営巣して、秋、南方に去る。なお、ツバメ科の鳥は、全長15~20センチメートル前後。翼が良く発達し、速く飛びながら昆虫を捕食。世界に約90種、日本にはコシアカツバメ・イワツバメなど5種が分布。(広辞苑より)
ツバメとがどこから土を運んでくるのかを知ったのは、鴨川で粘土質の土をくわえて飛び去る様子を目撃した時でした。巣の材料として利用していたのですね。鴨川を飛び回るツバメの様子をカメラに収めたくて何度かチャレンジしましたが、未だ叶ってません。
<ツバメ 土をくわえてセッセと運ぶ>
<巣を補修して>
<餌を捕りに出かける>
タカ目タカ科の鳥。市街地や海辺に多い。背面はいわゆる鳶色。主に小動物やその死骸を食う。「ぴいひょろろ」と鳴く。日本を含む旧世界に広く分布。(広辞苑より)
アメリカ大陸発見以前に知られていた世界、すなわちアジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸および付属島嶼(とうしょ)の称⇔新世界(広辞苑より)
鴨川でもトビに食べ物をさらわれるという経験をされた方が多いようです。実は私も油断しているときに背後から音も無く飛来して、一瞬で手から食べ物が消えていました。
<トビ 猛禽類>
<紅葉に囲まれて>
<空を旋回しながら>
<獲物を狙う>
トビもことわざに登場しますが、トビを良い生き物として扱われていないようです。トビが食べ物を取り去るようになったのは、人間のえさやりが原因のはじまりと言われています。
うまく共存するには、人間が気を付けないといけないという事ですね。
平凡な親が優れた子供を生むことのたとえ。(広辞苑より)
当然自分のものになると思っていたものを、思いがけず横合いから奪われて、呆然とする。
(広辞苑より)
下賤なものも起居が端正であれば品良く見える。(広辞苑より)
カラスの一種。嘴(くちばし)が太い。全身黒色で光沢がある。雑食性。「かぁかぁ」と澄んだ声で鳴く。ハシボソガラスと同じく人家付近にすみ数は極めて多い。東アジア産。(広辞苑より)
カラスの一種。ハシブトガラスよりやや小形で、嘴(くちばし)は細く短い。「がぁがぁ」と濁った声で鳴く。雑食性。人家付近に普通にみられる。ユーラシア大陸北部に分布。(広辞苑より)
鴨川真発見記を書き始めた頃は日本にいるカラスに種類があるとは知りませんでした。何度も“ハシボソガラス”の写真を撮影し、専門家の方に「これハシブトガラスですか?」とたずねる度に「違いますハシボソです」とご回答頂いた事を思い出します。
ハシボソとハシボソの鳴き方の違いを知って、鳴き声でも判別出来るようになりました。
<ハシブトガラス 「かぁかぁ」>
<ハシボソガラス 「がぁがぁ」>
<石をひっくり返して水生昆虫を食べる ハシボソ>
スズメ目ヒヨドリ科の鳥。大きさはツグミぐらい。大部分青灰色で、頭の羽毛は柳葉状に立ち、耳羽は栗色。山地の樹林に繁殖し、秋、群をなして人里に移る。波状に飛ぶ。鳴き声は「ひいよひいよ」とやかましい。日本に広く分布。(広辞苑より)
ヒヨドリは鴨川沿いでもよく見かけます。サクラが咲くと、くちばしを黄色く染めながら花の蜜を吸う様子を見る事が出来ます。
<ヒヨドリ 咲き始めたサクラに>
<ペア 体の色は大部分“青灰色”>
<サクラ蜜を吸って>
<クチバシの周りが黄色くなった>
幼鳥は、体に斑点があり、星五位(ホシゴイ)という。夜鳥。(広辞苑より)
ホシゴイは、幼鳥期の姿と成鳥期になってからの姿が大きく変わります。その過程を見てみたいものです。
<どこにいるでしょう>
<ここ、ここ!>
<わかりました>
<夜行性 目は赤色>
スズメ目ムクドリ科の鳥。ツグミぐらいの大きさで、灰褐色。嘴(くちばし)と脚は黄色。日本各地の人家付近の樹林や田圃(たんぼ)に群棲し、果実や昆虫を食う。夏の終りから冬にかけて夜間に大集団で共同ねぐらをなして眠る。鳴き声が甚だ騒がしい。
「鳴き声が甚だ騒がしい」 当事務所にも「ムクドリの鳴き声がうるさい」と苦情を頂いた事もあります。
<ムドリ幼鳥 体の色が淡い>
<成鳥は灰褐色>
<渋柿の実食べるの?>
<クチバシと脚は黄色>
カモメの一種。小形で、体は白色。冬羽は頭部白く、後頸・耳羽は褐色、雨覆いは銀灰色。夏羽では頭部が黒褐色となる。嘴(くちばし)・脚は暗赤色。ユーラシア大陸北部で繁殖し、秋、日本に渡来。和歌に詠まれた隅田川の「都鳥」はこの鳥という。(広辞苑)
鴨川冬の風物詩。私のコメントは必要無いでしょう。
<ユリカモメ 目の横に“えくぼ”>
<夏になると頭は真っ黒>
<光を浴びてより美しく>
<人だかりに寄ってきます>
カモの一種。中形の美しいカモで、雄の頭上は紫黒色。背は白黒の細かい斑で、翼は主に灰色、翼鏡は金属光沢のある緑色、最も内側の風切羽は長く、鎌状で、金緑色と白の縞がある。アジア北東部で繁殖し、冬季、本州以南に渡来。(広辞苑より)
鴨川に一羽だけオスのヨシガモを見つけたのは5年程前の事です。例によって専門家の方に問い合わせると、ヨシガモとのこと。「鴨川にヨシガモが居ましたか。珍しい」とうれしい回答を頂いてから5年間。
更に珍しい事に、他の仲間と渡りをせずに5年間一匹オオカミで鴨川と府立植物園を行ったり来たりしているようです。
<ヨシガモ 一羽だけ鴨川に>
<渡らず居残り>
<光の当たり方で>
<美しく輝く>
やっと最後のヨシガモまでたどり着きました。鴨川で見かける野鳥を全部ご紹介しようと試みましたが、時間がかかりすぎるので何種類か省略させて頂きました。とりあえずこれにて「とり」年野鳥特集を終えさせて頂きます。皆様もこの中から何種類か覚えて頂けることを願いつつ、力をお借りした広辞苑にも感謝しつつ。
平成29年3月23日 (京都土木事務所Y)
京都土木事務所Yとして情報発信してきました「鴨川真発見記」も春の訪れと共に私の手を離れる時が来たようです。
今回は京都土木事務所Yとして鴨川・高野川を歩き回った6年間を思い出しながら私からの最後の「鴨川真発見記」をお届けします。
2017年3月最後の日曜日となった26日は、いつもの様に朝から川へと向かいました。高野川の松ヶ崎橋から下流へと向かいます。
まだつぼみの固いサクラの枝には“エナガ”が数羽やってきてさえずっています。急いでカメラを取り出したものの、小さくて素早い動きの“エナガ”の姿をとらえきる事が出来ませんでした。
<サクラの枝にかくれんぼ エナガ>
<飛び去るエナガ>
<弾丸の様に?>
高野川に入ると、渡りの前の“ヒドリガモ”が一羽餌の水草を食べながら「ピュー、ピュー」と澄んだ声で鳴いています。もうすぐお別れの時がやってくるとでも言っているようです。
<ヒドリガモ 「ピュー、ピュー」>
<もうすぐ北へ渡ります>
少々感傷的になりながら、歩いていくと今度は見かけない野鳥がいました。黒い体の“オオバン”かと思いきや、トレードマークの白いクチバシではありません。後日専門家の方に写真を送ってみてもらいました。
<この後姿は?>
<草を拾い上げて>
クチバシから額にかけての色が特徴的な赤ではありませんが、“バン”という野鳥でした。私の書く「鴨川真発見記」的には、野鳥探しの真発見はこの“バン”が最後に新たに仲間に加わりました。
<“バン”でした>
鴨川へとやってきました。賀茂大橋では耐震補強の工事が進んでいます。左岸から右岸を望むと早咲きの桜が満開を迎えています。後を振り返ると“ボケ”の花も春を彩っています。
<耐震補強工事が進む賀茂大橋>
<早咲きのサクラが2本>
<ボケの花も春の訪れを告げます>
丸太町橋まで行くと、マラソン大会でしょうか。カメラでズームアップすると、「START」の文字が裏返しで読めました。本当に鴨川は様々にご利用頂いています。
<丸太町上流で>
<開会式?>
<スタート地点>
丸太町橋下流左岸に到着です。この日の目的の一つ公益財団法人日本鳥類保護連盟京都主催の「鴨川リレー探鳥会」の集合場所です。鴨川真発見記で野鳥を紹介する情報を得てきた鴨川の探鳥会です。
<鴨川リレー探鳥会>
野鳥の名前を一から教えて頂いた、事務局長の中村桂子氏と共に最後の休日の鴨川を巡りました。川の中では、“コサギ”が立っています。いつもに増して立派な二本の冠羽を見せてくれました。
<コサギ 冠羽が二本>
<ピンと立ちました>
二条大橋上流の飛び石にやって来ました。何度もご紹介したこの場所の飛び石ですが、昔の地図などを調べていくうちに“真発見”がありました。
この場所には以前「夷川橋」という橋が架かっていました。昭和10年の大水害で流失してから橋は復旧されなかったようです。
<二条大橋上流の飛び石>
新しくオープンしました「京都府立京都学・歴彩館」のHP京の記憶アーカイブにアップされている京都市明細図で確認することが出来ます。鴨川の丸太町橋、二条大橋間に確かに「夷川橋」の表記があり、橋のところに×が記されています。
<京都市明細図 丸太町橋・二条大橋間>
※京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブより
<京都市明細図 夷川橋 京都市立銅駝尋常小学校>
※京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブより
夷川橋の西詰め北側にある現在の「京都市立銅駝美術工芸高等学校」は当時「京都市立銅駝尋常小学校」だったようです。古い地図を覗くと様々な歴史が見えてきて楽しいものです。
その後昭和の終わり頃に、飛び石が設置されて川を渡る事が出来るようになったのです。
二条大橋も現在耐震補強工事が行われています。この6年間ずっと気になっていた構造物のある場所です。橋の上流側に残されているコンクリート構造物です。
<気になっていたコンクリート構造物>
<二条大橋上流左岸>
何の遺構かと思って何人かの人に尋ねてみても「橋の橋脚の名残のようだけど、右岸の正面には建物があるから不自然ですね」という回答でした。
何度も目を通した昭和10年の大水害をキッカケとした大改修の計画図面にその答えがありました。計画図面の二条大橋が上流側にクランク状に方向を変えて線が書き込まれています。
<二条大橋>
<コンクリート構造物の正体は>
※鴨川(昭和10年)改修計画平面図
二条大橋が昭和10年に流失して、その後現在の橋に掛け替えられた昭和18年までの間の仮の橋の橋脚の名残が残されているのでした。6年間疑問に思っていたことがようやく“スッキリ”しました。
話を戻して、今の鴨川です。二条大橋を下流へ向かうと、少年が水際で網を持って何かをすくっていました。声をかけると「魚を捕っています」との事です。
「そんなに簡単に捕れるの?」とバケツの中を覗いてみると、体長1cmほどの小魚が入っていました。
<網ですくうのは?>
<小さな、小さな小魚です>
これぞ「サギシラズ」。小さすぎてサギも知らないという意味です。このサギシラズは佃煮にして京の都の名物土産だった時代もあるそうです。水産関係者の方が復活させようと取り組んでおられるとも聞いた事があります。
三条大橋上流では、寄州に降りて何かを探すご家族連れの姿がありました。「何をお探しですか?」と声をかけると「つくし」ですとの返事がありました。
<捜し物は何ですか?>
<「つくし」です>
「この街中でつくしですか」と半信半疑で寄州に降りてみると、指さす先には確かにつくしの姿がありました。
<写真中央 「つくし」の姿>
<石積みの間からも>
実は昨年一般の方から質問を頂きました。鴨川で「つくし」が出る場所はどこですか?という質問でした。事務所の職員に確認しましたが、長年鴨川の管理に従事している職員でさえも鴨川では見た事が無いという反応でした。
その後、偶然京都土木事務所のある北山大橋下流の寄州で見つけたのですが、こんな街中にも「つくし」があろうとは。
鴨川の様々な場所で、寄州にしゃがんで「何か」を探しておられる方の姿を目にします。それが「つくし」採取だったのかもしれません。
「探さなければ見つからない」鴨川真発見記の原点を思い出す事になりました。
<よ~く見ないと見逃す「つくし」>
京都土木事務所Yが書く鴨川真発見記最後の写真は、鮮やかな黄色が目立つ“キセキレイ”の後ろ姿でお別れしたいと思います。
<キセキレイの後姿で「さようなら」>
平成29年3月27日 (京都土木事務所Y)
鴨川のあらゆるジャンルの情報を発信するツールとして京都土木事務所の公式ホームページ内に創設させて頂いた「鴨川真発見記」のコーナーも開始から5年余りが経過しました。
「わかりやすく」をモットーに小学4年生の目線で書いたらどんな風に表現するだろうかと心に置きながら、なるべく「ゆるい」感じの表現で記事を書かせて頂きました。
記事の中に一つでも「ふっと」小さな笑いが入るような文章をお届けしたいと書き続けるうちに、ご覧頂いている方から「忙しい仕事の合間に“鴨川真発見記”を読むと“ふっと”肩の力が抜ける」というお言葉を頂いた時には“想いが届いた”と思ったものです。
記事のジャンルにもよりますが、鴨川を歩いて様々な情報を発信していると、「ライブ感があって鴨川へ行っている様だ」とか「実際に鴨川へ行ってみたくなる」などのお言葉に“やりがい”を感じ、これまで継続してきた原動力になりました。
鴨川の情報を歩いて収集し、整理・発信する事で、私にも鴨川の情報が一つ一つ蓄積し、269号の記事となりました。これは私自身にとって大きな宝物であり、京都府にとっても貴重な資料となると自負しています。これも一重にご協力頂きました皆様、同僚、上司そして家族のおかげです。
これまで「鴨川真発見記」を見守って頂きました皆様、本当に有難う御座いました。「鴨川真発見記」は今後どのような形で継続するかは未定ですが、京都土木事務所Yからの鴨川に関する情報発信は今回が最終号です。
鴨川は今や私のライフワークとなりました。他の所属へ異動しましても個人的には「鴨川よろず研究家」として関わりは続けていきます。何らかの形で鴨川の情報発信を継続して行きますので、またどこかで私の記事をご覧頂ければ幸いです。
鴨川そのものはもとより「鴨川真発見記」を通じて頂いた多くの“ご縁”とそのネットワークの広がりに改めて感謝の意を込めて「このご縁は今後も繋ぎ続けて行きたいと思っております。本当にありがとうございました!」
「京都土木事務所Y」こと 企画調整担当 山本哲 より
<京都土木事務所Yこと山本哲似顔絵>
鴨川でこの顔を見つけたらお声かけください。
※似顔絵:2014年に野々村和真氏に書いて頂きました。
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