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鴨川真発見記 平成28年10月

 第249号 雲ヶ畑 秋の足谷おむすび紀行

知らなかった!「山椒」を真発見

 平成28年10月8日(土曜日)は、雲ヶ畑足谷へ「鴨川おむすび紀行VOL4」と題して自然観察ツワーを開催しました。私の所属するNPO法人京都景観フォーラムの活動の一部です。

※京都景観フォーラムのホームページにリンク(外部リンク)

 降水確率80%と高い確率で降雨が心配され、雨が降るのならとキャンセルされる方もおられたようですが、結果的には降雨にみまわれる事無く無事に自然観察をする事が出来ました。

 雲ヶ畑バスもくもく号で終点の岩屋橋へと到着すると、雨が降る前に目的地まで到着しようと足早に足谷の入り口へと向かいました。

 それでも道中には魅力的な植物が出迎えてくれます。最初に紹介されたのは、ハナワラビの仲間です。ハナワラビの仲間は、栄養を得るための大きく広げた「栄養葉」の他に子孫を残す為の「胞子葉」を立ち上げるそうです。この胞子から来年新たな子孫が芽吹く事でしょう。

<ハナワラビの仲間>

<高く立ち上がる“胞子葉”>

 横に流れるのは、一級河川鴨川に合流する祖父谷川です。この流れをたどってくと、鴨川真発見記第239号でご紹介しました、鴨川の真の源流へと繋がって行きます。

<祖父谷川の澄んだ流れ>

 川沿いの木にアケビの蔓が巻き付いて、サツマイモの様な色合いのアケビがぱっくり口を開けて種を運んでちょうだいと言わんばかりです。手にとってみてみると既に鳥がその役割をかって出たようです。

<サツマイモの様な色>

<中の果実は少し残してかじられて>

 まだ実が手つかずかと思いきや、アリがその身の中に入り込み、甘い果実を物色していました。

<食べてみようか>

<アリがいる>

 その先に咲いている白い花が紹介されました。ただ単に白い花かと思いきや、ズームアップすると、なんとも芸術的な黒い斑点と黄色い水玉模様が見えてきました。

<白い花>

<細かな模様>

 珍しい植物が紹介されると、参加者の皆さんもスマホやカメラを構えて画像のお持ち帰りです。

<もっと近くで観察>

<画像のお持ち帰り>

 足谷に足を踏み入れると、林道脇の樹木に素敵な札が架かっていました。雲ヶ畑にお越しになった方はこの気持ちを共有出来るのではないでしょうか。

 私はこの山がすき

 雲ヶ畑がすき

 雑木林が大好き

 空の色がいい

 澄んだ流れがいい

 出会う人がいい

 いっぱいあるけど

 皆んな大好きだ

 自然がいい、人がいい。この2年余り雲ヶ畑の自然と人に触れて思った事がこの一枚の札に溢れていました。

<雲ヶ畑の魅力が一枚に>

 マツブサの実、春に来た時には緑色の房状に実っていた実は、秋を迎えて黒く熟していました。その実を味わってみると甘酸っぱい実りを感じました。

<黒く熟れた果実>

<マツブサの実>

<食べてみてください>

<甘酸っぱい>

 今回ただ一人の小学生の参加者、小林初菜ちゃんが足元をじっくり見ながら歩いていると、団栗や栗を見つけては報告してくれました。

<ドングリ見つけた>

<クリ見つけた>

 行く先々で、紫色に熟したアケビがぶら下がっています。10日程前に下見に来たときには、たった1つだけ熟したアケビがありましたが、その間に次々と熟したようです。

<行く先々でアケビ>

<下見の際に1つだけ立派なアケビ>

 初菜ちゃんが見つけたのは、実りだけではありませんでした。山のやっかい者、「ヤマビル」です。知らぬ間に皮膚に吸い付き、その小さな体をぱんぱんになるまで血を吸うやっかい者です。この日も「ヒル下がりのジョニー」という撃退用のスプレーを準備しましたが、数名の犠牲者が出ました。

<写真中央にヤマビル>

 毒があるわけでは無いので、「かゆい」「血が止まりにくい」以外は害は無いのですが、血を吸ってぱんぱんに膨れあがった姿には恐怖を感じる方も少なくないようです。 

 春の山菜天ぷらの定番「タラの芽」も秋を迎えて「タラの実」へと姿を変えています。茶色く実ったタラの実を見て、「酒の肴タラの芽の天ぷら」にしか縁が無かったとおっしゃる参加者もおられました。

<タラの木>

<タラの実>

 ぷっくり膨れたキノコの仲間を、枝でつつくと真ん中の穴から胞子が飛び出しました。つんつくつん。

<身を寄せ合うように>

<つんつくつん>

 他にも色んなキノコが傘を開いていましたが、キノコの知識はありません。触らぬ神にたたり無しです。

<キノコ>

<キノコ>

 またまた初菜ちゃん何かを見つけてくれました。「バッタ」です。昆虫好きの参加者が一目見て「フキバッタ」と教えてくださいました。

 足谷の山は、希少種の宝庫です。その希少種を保護する活動をされているのが、今回ご案内頂いた「雲ヶ畑足谷人と自然の会」です。それを告知する看板も立てられています。盗掘等なさらないでください。

<フキバッタ>

<保護活動の告知>

 そして、今回の山案内の目玉「山椒」の観察です。皆さんは、山椒というと何色のイメージがありますか。多くの方は実山椒の緑色のイメージが強いのではないでしょうか。実は秋のこの時期の山椒は熟して「真っ赤」に染まります。

<赤く熟した山椒の実>

<熟して弾ける皮 中には黒い実>

 私も下見の際に初めて知ったのですが、真っ赤に熟すのです。その事を教えてもらった際に、「知らなかった。知ってる人は少ないのでは?」と話すと、「誰でも知っているでしょう」との返事がありました。 

 その後10人くらいに尋ねてみましたが、赤くなるのを知っていたのはたっったの一人でした。この日の参加者もその事を知っておられた方は少なく「へ~」という反応が起こりました。

 更に山椒はミカン科で、よく見るとミカンの皮同様のぶつぶつがあります。その皮の部分が熟するとはじけます。その皮の部分を乾燥させて粉にした物がウナギの蒲焼きにかける山椒の粉なのです。

<ミカン科の山椒 表面にミカンの様なつぶつぶも 山椒の香立つ>

 ここで、山主さんの「笑えるエピソード」を聞かせて頂きました。赤く熟した山椒の実をとげをかき分けて収穫し、どっさり持ち帰り、山椒の粉を作ろうと一生懸命皮と中の実をより分けたそうです。 

 真ん中の黒い実が山椒の粉になると信じて、皮を吹き飛ばしながら黒い実が準備されました。さて、どうしたものかと詳しい方に電話で問い合わせたところ、「山椒の粉は皮の部分。なんとバカな事をして・・・」と笑われてしまったというのです。 

 この詳しい方が今回ご案内頂いた西野氏です。山椒は「花山椒」「芽山椒」「実山椒」「山椒の粉」とその季節に応じて4つの変化で楽しめる万能な樹木です。山主の島岡氏も自分の山に山椒を沢山植樹して山椒畑を作りたいと夢を語られました。 

 相変わらず足元を見つめながら進む初菜ちゃんが、指さして「メロンの柄に似ている」と教えてくれました。人それぞれ発想が豊かだと感じた瞬間でした。

<メロンの皮の様に>

 ベニバナヤマシャクヤクの実が赤と黒の果実を付けています。下見の際はぱっくり割れた実から原色の果実を覗かせていた実は、その姿をあらわにして猛烈にアピールしている様でした。 

 黒い実が「本果」といって本物の種のある果実。赤い実が「偽果」といって種の無い偽物の果実だそうです。赤い果実「偽果」で誘って本物の果実を食べてもらう作戦のようです。

<下見の際のベニバナヤマシャクヤクの実>

<ツワー当日の様子>

 こうして雨に降られる事無く、下山する事が出来ました。下山後は久保常次、清美夫妻の農家民宿「ぜーもん」でツワーのコンセプトでもある「おむすび」を参加頂いた皆さんで握ってお昼ご飯を食べました。 

 その後、足谷ツワーの感想を参加者全員が語り合って、雲ヶ畑の自然と人の素晴らしさを実感する有意義な時間を過ごす事が出来ました。

<参加者が自ら握るおむすび紀行>

<配膳も参加者で>

<感想を語り合って無事終了>

 参加頂いた皆さん、そして鴨川真発見記をご覧の皆さん、また鴨川源流雲ヶ畑にお越しください。そんな機会を用意してお待ち申し上げております。

 

平成28年10月11日 (京都土木事務所Y)

 

 第250号 鴨川源流域を流れる川の名は

一級河川鴨川起点より上流の普通河川

 鴨川の一級河川としての起点から下流は桂川との合流点まで当然ながら「かもがわ」という発音で一般的に充てられる漢字は高野川との合流点までを「賀茂川」又は「加茂川」、高野川との合流点から下流を「鴨川」とする場合が多いです。

 河川法上管理している「かもがわ」は一級起点から桂川合流点まで一貫して「鴨川」に統一していますが、地元の方が親しみを込めて充てられる漢字を否定するものではありません。

鴨川の表記の違いを説明した図

 それでは、その上流はどうでしょうか。鴨川の一級起点よりも上流は、京都市管理の普通河川です。地元にお住まいの方から「雲ヶ畑川」という河川名を耳にしました。正式に「雲ヶ畑川」という名称があるのかどうか気になっていました。

 その方のお話では、鴨川源流「桟敷が岳」から流れ出る「祖父谷川」、祖父谷川が鴨川信仰の源流岩屋山「志明院」から流れ出る「岩屋谷川」と合流して、その後鴨川一級起点までを「雲ヶ畑川」と地元の方は呼んでいるとの事でした。

 そこで、京都市統計ポータルサイトを覗いてみると、主要普通河川という項目にたどり着きました。

d 主要普通河川

 本表にいう「主要普通河川」とは、流路延長概ね3km以上で、下流端で一級河川(同一河川名は除く)に接続するものである。

 とあります。その表の一番上に「祖父谷川」の表記があります。

河川名 祖父谷川(そふたにかわ)

流路延長 8,200m

上流端 北区雲ヶ畑出谷町

下流端 一級河川鴨川合流点

 つまり、河川管理上は鴨川一級起点から上流の本流は祖父谷川で、雲ヶ畑川という河川名は出てきません。

 河川管理上の河川名と場所によって違う呼び方をする河川はというと、身近なところでは、「桂川」がそうです。京北を流れる上流域から「上桂川」「桂川」「大井川」「保津川」「大堰川」「桂川」と地域によって呼び名が変わります。すべて桂川ですが、当所の管内図でも通称を()書きで添えています。

 鴨川も昔から今の河川法上の一級河川全域を鴨川としていたわけではありません。それでも歴史的には平安時代から鴨川の名は語られています。

 それでは、河川法上はどういう経過で定められてきたのでしょうか。京都府公報を紐解いてみましょう。

明治29年9月30日

[告示第177号]内務大臣の許可を経河川法第4条により淀川の支流と認定する

鴨川 大阪街道紀伊郡上鳥羽村大字塔の森より、同郡下鳥羽村大字中島に跨る小字小枝橋下流桂川落合に至る

 最初に河川法で定められた鴨川は、小枝橋から下流のわずか2km余りの短い区間でした。

<小枝橋~桂川合流点 現在の様子>

 そして大正6年には、河川法を準用する準用河川に認定されます。

大正5年3月20日

[京都府告示第130号]

 鴨川 河川法第5条により、河川法に規定している事項を準用すべき河川に認定し大正6年4月1日より施行する

 愛宕郡(おたぎぐん)上賀茂村大字上賀茂 鞍馬・中津川両川合流点以下紀伊郡上鳥羽小枝橋に至る

 現在の鞍馬川合流点まで一気に河川法が準用される鴨川となりました。この区間は従来から「かもがわ」と呼ばれていたと想定できます。江戸時代の鴨川修復の絵図「鴨川筋絵図」でも鞍馬川と岩屋川の合流点で河川名が変わっているので間違い無いでしょう。

 そして、昭和に入り準用河川区間は一級河川に認定されます。

昭和3年1月24日

[京都府告示第50号]

 明治29年京都府公告第177号を以て認定告示した淀川支流鴨川の区域を以下の通り追加認定する

自:愛宕郡上賀茂村中津川合流点

至:紀伊郡下鳥羽村大字中島 小枝橋

<鞍馬川・中津川合流点 現在の様子>

<写真右から鞍馬川が合流>

 ここで中津川との合流点までが一級河川として認定されました。先程紹介しました絵図では、鴨川の上流はイハヤ川(岩屋川)となっていましたので、この時期には中津川が本流として鴨川が合流する川の普通河川名に変化したようです。

 そして昭和40年3月24日の官報に鴨川の区域を現在の一級起点に定めています。

鴨川(中津川を含む)

自:京都市北区雲ヶ畑中畑町17番地地先

至:桂川への合流点

<鴨川一級起点 現在の様子>

 こうして一級河川鴨川としてこの区間を京都府が管理しています。

 この変遷を図で表すと次の様になります。

 話を最初に戻しますと、「雲ヶ畑川」の話です。江戸時代鴨川の上流域は岩屋川と呼ばれ、そこから推定出来る事は、岩屋山から流れ出ている岩屋谷川が本流として支流の「祖父谷川」「中津川」と合流して流下し、「鞍馬川」と合流して鴨川となったという事です。

 その後、鴨川と合流する岩屋川は、先に合流する祖父谷川にその名を譲り、その下流で合流する中津川が本線となり鴨川へと合流する事になったのでしょう。

 そしてその中津川も下流から区域を追加された「鴨川」にその名を譲り、支線として現在の形態に落ち着きました。

 現在地元の方が「雲ヶ畑川」と呼んでおられる区間も「岩屋川」だった事でしょう。もしかすると、当時から地元では親しみを込めて雲ヶ畑川と呼んでおられたのではないでしょうか。

 と、ここまで書き進んだところで、確かな情報を得ました。普通河川を管理する京都市の職員さんからです。

京都市から提供のあった図京都市から提供のあった図

 京都市の河川管理台帳上も桟敷が岳の佐々里峠から流れ出た普通河川は、祖父谷川で鴨川一級起点まで、岩屋山から流れ出て祖父谷川に合流する普通河川は「雲ヶ畑岩屋川」となっているそうです。

 鴨川に合流する川が「岩屋川」だった頃、正式には「雲ヶ畑岩屋川」だったとすると、略して「雲ヶ畑川」だったのかもしれません。

 鴨川源流の本流「祖父谷川」をここが“源流”と伝わる場所に行ったことがあります。イメージしていた源流とは少し違いました。その様子は鴨川真発見記第239号 2016ゴールデンウィーク“その2”鴨川源流足谷の自然観察会の中でご紹介していますのでご参照ください。

<地図・航空写真・地形図に見る源流点と現地写真>

 最近、雲ヶ畑村だった頃の村役場の行政文書が長年の歳月を経て日の目を見ました。明治初期からの村の暮らしを示す行政文書です。川の災害復旧などの文書も沢山含まれていますので、鴨川上流域の河川名についての詳細も解き明かされる日も近いのではないでしょうか。

 

平成28年10月6日 (京都土木事務所Y)

 

 第251号 平成25年台風18号 下鳥羽災害記録

水災害の教訓を後生に伝える活動を支える村瀬克子さん

 平成28年10月17日に下鳥羽自治会から山田知事に「平成25年台風18号下鳥羽災害の記録」という冊子が手渡されました。私の手元にもその冊子が届きました。

 今回は、この記録誌と共に、作成にあたって自ら陣頭指揮をとられた下鳥羽市政協力委員連絡協議会会長の村瀬克子さんのご紹介をしたいと思います。

 ※記事に使用している写真は主に記録誌から引用させて頂きました。

<冊子表紙>

<知事へ手渡し 中央が村瀬克子さん>

 平成25年台風18号による増水で鴨川から水が溢れて家屋や道路が浸水した下鳥羽での災害の記録が示されていました。読み進んでいくと、災害時の各関係機関などの対応の状況などが克明に記されています。

<旧千本水防倉庫前>

災害時の様子

 単なる事実の記録のみならず、下鳥羽で生活しておられる方々がかつて経験したことの無い水災害に戸惑い呆然としながらも災害を最小限に食い止めようと奔走した記録とともに、かつて経験しなかった水災害への対応への反省点が記されています。

<溢れ出す鴨川>

<土嚢積み>

 まさに「まさかの時」どのような行動をとるべきか!後生に伝える教科書となっています。誰もが被災していないと「他人事」となってしまいます。下鳥羽の方もニュースで水災害の報道を目にしても「お気の毒」とは思っていても、自分の身には関係の無い事と思っておられた様です。

 どこの地域でも起こりうる「水災害」について考え直してみる教材として活用できる素晴らしい冊子に仕上がっています。

 読み終わった後、村瀬さんの存在を知り、お話しを聞かせて頂く事としました。村瀬さんは、快くご自宅に招き入れてくださいました。

 さて、何からお話し頂こうかと思いつつお宅を訪問しましたが、具体的に項目を決めてはいませんでした。

 はじめに、「まさに水が溢れ出た時村瀬さんはどうしておられましたか」と尋ねると、深夜から降り続いた雨で、鴨川が溢れそうだという情報は入っていて、明るくなって家から出ようとしたところ、家の前の道路にひたひたに水が流れていて家の中に戻ったとの事でした。当時の水口伏見区長さんからも危ないから外に出ない様に連絡があったそうです。

<旧千本 下板橋通り>

<下板橋通り>

 市の広報車が巡回して、小学校に避難するようスピーカーから避難の呼びかけがありましたが、実はその小学校のグラウンドは水が流れ込んで避難出来る状況ではありませんでした。「小学校は水が入って避難出来ませんよ!」と声を掛けると、広報車の担当者には情報が入っておらず、きょとんとした様子だったそうです。

 情報伝達の役割を担う行政の情報共有という点で反省点となりました。

<下鳥羽小学校>

<下鳥羽小学校校庭浸水(35cm)>

 小学校が水災害時に避難場所として機能しない事も判明したので、直ちに村瀬さんは自治会館を開放して避難所として利用する様指示を出されました。おむすびを調達する様にとの指示も出されましたが、地元スーパーなどで調達出来たのは200個程度で、前日から災害対応をしている人には行き渡りません。

 そこで、日頃のおつきあいから「一升炊ける炊飯器」を持っているお宅の方の顔を思い浮かべて、一人一人に電話して「今すぐ一升のお米を炊いておむすびを作って」と指示を出しました。

 そのおむすびを教頭先生が家々を回り集めて、災害対応している水防団や消防団、浸水被害の後片付けなどをしている方々等へ届けました。おむすびを受け取った方々は一息つけた瞬間でした。

<災害宅の復旧作業>

<被災家財などの運び出し>

 川の水はあっという間に流れ出て、下鳥羽の地域をのみ込み、あっという間に水は引いていったそうです。昭和46年にこの地に移り住んで初めての経験だったそうです。移り住んだ頃は辺り一帯が田んぼだったそうで、そのままの状態であれば、今回のように水が溢れても田んぼにたまって家や道路までつかることはなかったかもしれません。

 村瀬さんは続けます。鴨川の流域に降った雨は、全部鴨川の最下流「下鳥羽」へ流れ出てくる。その最下流こそしっかりと治水工事をしなければならない。「下」があってこそ「上」がある。「上」ばかり手当してもよろしく無い。

 そして、今回さらに驚いたことは、下鳥羽に住んでいながら浸水しなかった地域の方は、この災害の事実すら認識していなかったことだそうです。

 そこで、この災害の記録を教訓として後生に残す事の必要性を感じたそうです。水防団・消防団の血気盛んな若者の背中を後押しして記録誌の作成を促しました。

 最初は文字を並べただけの記録誌で済ませる様な方向性で取り組んでいましたが、文字だけの並んだ文章では人の関心を引くことが出来ない。誰も読んでくれないんじゃ無い?と村瀬さんは助言されました。

 地域の方が撮影した写真集めが始まりました。よくぞこんな写真が撮れたものだと感心する様な写真が集まりました。特に臨場感ある写真が表紙を飾り、「こんな事になっていたのですか!知らなかった」と見る人の目を引きつけました。

 京都府、京都市の補助金を利用して立派な冊子に仕上げる事が出来ました。地元の小学生の教材としてはもちろんの事、市内の水災害と縁が無いと思っている大人や子どもに対する教材としても活用されていくと思います。

 長く市政協力委員や環境委員として活動されてきた村瀬さんの声かけだからこそ、行政や府・市の議会議員をはじめとする多くの関係者が迅速に対応したという背景もありました。

<空いている“パッカー車”は下鳥羽へ>

 「自慢じゃないけど」と謙遜される村瀬さんに、私からは「おおいに自慢してください」と伝えました。若い水防団員や消防団の方々も「やらされている」のでは無く熱意を持って記録誌作成に協力してくれたからこそ「何処に出しても恥ずかしくない立派な記録誌ができあがった」と嬉しそうでした。

 村瀬さんの口からは「私は旗振り役としてみんなにイヤな事も言ってきた」「それは地元にしがらみの無いよそ者だからこそ出来た事」とこれまでの活動を振り返っておられました。

 そこには、3年前に他界されたご主人の理解があったと付け加えられました。

 地域のため、人のためにせっせと活動を続ける村瀬氏にご主人も最初は関心を示しておられなかった様ですが、「どうせやるなら楽しんでやれば良い」と理解を示され、退職後は秘書の様に活動を支えて来られたそうです。

 細々とした書類の整理や文章の校正など頼りになる秘書を失った村瀬さん、ご主人のことを生前は「あれや、これや」とうるさいと思った事もあるけれど、失ってそのありがたさをヒシヒシと感じると語られました。

 村瀬さんのこれまでの活動のお話しを聞いていると、人を説得する話術にたけた方だと感じます。何かをお願いする時、一方向の視点で説得するのでは無く、相手方が回り回って自分の為にもなるのだと納得する視点でお話しをされます。

 なるほど、それなら協力しなくてはと納得されるのです。実に機転の利いた話術で相手方から何かを引き出して行く頭の回転の速さを実感しました。口ではしんどい事ばかりといいながら「人の為になる活動は楽しい」ともおっしゃいます。

 また、こんなエピソードも聞かせて頂きました。地域の先人の方達より、下鳥羽はよく水が溢れる地域だったと聞かされていた村瀬さんは、平成16年の台風による増水後、鴨川を点検していると、今回の溢水箇所の堤防の石積みが崩れそうになっている事に気づきました。

 これはなんとかしなければということで、区役所に直談判して河川管理者である国、京都府、と話し合う場をつくってもらい、結果防水シートで補強する工事までしてもらうことができました。

 今水害を振り返ると、あの補強工事があったからこそ、今回破堤することなく溢水被害で留まったのではないかと思い、苦労したかいがあったなあと思うとのことでした。

 記録誌の中から京都土木事務所としても嬉しいエピソードをご紹介したいと思います。溢水後、またしても台風が接近するとの情報が入り、同じ溢水が起こるかもしれない状況になりました。

 京都府や関係機関と地元住民が集まって、今行政にして欲しいことなど要望がだされました。水が溢れない様に土嚢を積み上げて欲しいという要望でした。京都府としても同じ水害を繰り返す訳にはいきません。要望に応えて溢水した箇所に土嚢を積み上げました。

 台風は3日後くらいに到達する予測でしたので時間がありません。迅速な対応が求められます。突貫工事で土嚢を積み上げました。幸い台風の進路がそれて大きく増水する事はありませんでしたが、土嚢を積んだ箇所の近くの木に、荷札が掛けられました。

 近所にお住まいの木下徳治さんが書かれた文字は、「感謝です。土木事務所の一夜城 近所の住民」という内容でした。

<積み上げた土嚢>

<荷札に書かれた文字>

 このような形で頂いた感謝の気持ちは、京都府知事にも届けられました。出来る事を迅速に「公助」の形が目に見えるエピソードとなりました。

 その後、土嚢ではなくコンクリートのパラペットで水が溢れるのを防ぐ工事を施し、漂流物を堰きとめた龍門堰の管理橋を撤去して龍門堰本体も切り下げて一安心となりました。

<特殊堤防>

<漂流物を堰き止めた龍門堰管理橋 現在は撤去済み>

 28年度からは、桂川合流点上流の掘削工事による改修が始まります。鴨川流域のすべての水を集める最下流域の暮らしを守る工事にご期待ください。

<鴨川下流部 河川改修計画>

 

平成28年10月28日 (京都土木事務所Y)

 

 第252号 音羽川砂防堰堤耐震補強工事始まる

今年も養徳小学校5年生出前講座で工事見学

 平成28年10月14日は、27年度に引き続き音羽川砂防堰堤耐震補強工事が再開されました。この現場の様子は、鴨川真発見記第236号音羽川でロッククライミング?でも紹介させて頂きました。

 工事の再開に先立ち、施工業者さん主催の「安全祈願」が執り行われました。

 当所の現場担当職員も「安全に工事が進みますように」と神様にお祈りしようと同席することになりました。

<雨天の対策テントの下で>

<神職さんの祝詞>

 現場に設置された小さな祭壇に神職さんが祝詞を唱えられた後、昨年度に施工された舞台の様にせり出したコンクリート構造物の上で、現在の堰堤本体と工事現場四方にお祓いが施されました。

<大きなご神体のようです>

<キリヌサを振りまいて>

<鬼門の方角>

<左岸の山付けの方角>

<四方でお祓い>

<オオヌサを左右に振って>

 その様子を撮影しながら上を仰ぎ見るとその大きさを改めて実感しました。この位置から音羽川の堰堤を見るのは初めての事です。これから工事が進むとその最上端を超える高さになるそうです。最初で最後のこの眺めを記録しておきたいと思います。

<見上げる大きく高い壁>

<長年土砂を受けとめてくれました>

 ロッククライミング工法で削られた山の法面もモルタル吹き付けが施工されて補強部分のコンクリートを受けとめる準備が完了していました。

<ここで重機がロッククライミングしていました>

 神職さんが祭壇の前に戻って来られると、玉串の奉納です。二礼二拍手一礼と安全を祈願されました。

<玉串奉納>

<二礼>

<二拍手>

<一礼>

 参列者全員の祈願が終わると、神様への捧げ物「御神酒」「塩」「米」を現場の四方に蒔いて「安全祈願」は終了しました。

<御神酒、塩、米を>

<堰堤本体、現場四方に>

 この捧げ物の上からコンクリートを流し込みますので、供物が堰堤を守ってくれることでしょう。

 そして、10月24日(月曜日)は27年度に続いて養徳小学校で鴨川・高野川の昭和10年の大水害を契機とした大改修と昭和47年音羽川の土石流災害を契機とした砂防堰堤強化の出前講座を行いました。

出前講座の様子

出前講座の様子

 昨年度の出前講座の内容は、鴨川真発見記第225号でご紹介しています。今年度は若干修正していますが、そちらをご参照ください。

 養徳小学校での出前講座の3日後、同じく5年生児童が昨年度同様に今年度も再開した音羽川砂防堰堤耐震補強工事の現場見学にお越し頂きました。昨年度の現場見学は鴨川真発見記第223号をご参照ください。

 午前9時20分養徳小学校を出発した児童65名は、白川通りから山側の細い道に入って音羽川をめざします。山際の急傾斜地を見ながら「土砂災害警戒区域」を目にします。

<白川通りから山手へ>

<坂道を登って行きます>

 途中比叡山から流れ出た花崗岩の風化した砂の堆積した流路を見ながら進んで行きました。曼殊院の前を通過すると音羽川に到着です。工事用道路には昨年大雨で流れ出た砂を詰め込んだ大型土嚢で補強している様子を紹介しながら工事現場へと向かいます。

<ここに溜まっているのが>

<比叡山の花崗岩が風化した砂>

<沈砂池に溜まった砂を利用して>

<大型土嚢で工事用道路を補強>

 昨年一晩で満杯になった沈砂池も今年は大きな雨も無く、水をたたえています。学習ゾーンで少し時間調整をして工事現場に向かいました。

<昨年この沈砂池は砂で満杯>

<水をたたえた沈砂池と積み上げられた土嚢>

<澄んだ冷たい水>

<しばし時間調整>

 工事現場では、南丹土木事務所からお借りした子供用のヘルメットを着用して、堰堤増し打ちの為にコンクリートを運んでくるコンクリートミキサー車を待ちます。

<工事現場へ到着>

<まゆまろのシール入りヘルメット着用>

 程なくコンクリートミキサー車が次々と到着し、バケットにコンクリートが流し入れられて行きます。そのバケットをクレーン車で吊り上げて堰堤へと運ばれます。

<コンクリートミキサー車>

<続々と現場に到着>

<バケットに流し入れ>

<クレーンで吊り上げ>

 クレーン車のオペレーターと、現場の責任者がタイミングを合わせて必要な箇所へバケットを運び込み、コンクリートを型枠の中に流し入れます。すかさずバイブレーターで均一にならします。

<堰堤へと運びます>

<オーライ、オーライ>

<はい、そこです>

<コンクリート流し入れ>

 この間、コンクリートミキサー車やクレーンの稼働する音が工事現場に響く中、少し高台の場所からその様子を見学しました。当所の担当職員が大きな声で目の前で展開する工事の内容を説明しました。

<見学場所で移動>

<木の合間から現場を覗く>

<少し離れた高台で>

<大きな声で工事説明>

 児童達は、工事の様子を飽きる事無く見つめていました。一通り工事の説明が終わると、学習ゾーンに戻って質問タイムです。

 「どの位の期間で完成しますか」「コンクリートはバケット何杯必要ですか」「工事にはいくらのお金が必要ですか」などなど熱心に質問してくれました。

<静かな場所で質問タイム>

<質問のある人!>

 よいお天気に恵まれて、有意義な工事現場見学会となりました。この児童の中から将来の土木技師が生まれる事を期待しつつ現場を後にしました。

 

平成28年10月31日 (京都土木事務所Y)

 

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