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4月7日(木)は、気象予報桜散らしの「春の嵐」が吹き荒れて、数日前満開を迎えたソメイヨシノの花は一気に散り始めました。
今回は、3月末から春の嵐が吹くまでの鴨川でのサクラの開花の様子とお花見をする人びとの様子をご紹介したいと思います。
3月31日(木)は、春の嵐の一週間前でした。これから盛りを迎えようとしている高野川の早朝サクラの開花状況はどうかなと見てみました。
松ヶ崎橋から下流を眺めると、やはりまだ三分咲き程度でしょうか。遠目にはちらほら花が咲いているようでした。
<少し色づき始めたようです>
<近づいてみると>
近づいてみると、一輪、二輪咲いている枝もあれば、固まって咲いている枝もありさあこれからという感じでした。
<一輪咲き>
<固まって咲いている枝も>
鴨川、高野川の合流点では、花見の場所取りも無く、静けさ漂う早朝は野鳥の憩いの場となっているようです。“ツグミ”が“だるまさんがころんだ”をするように素早く動いてはぴたりと止まる特徴的な動きをしていました。
<鴨川・高野川合流点で“つぐみ”>
半木の道のザクラはそのほとんどが“ヤエベニシダレザクラ”ですが、数本ある“ベニシダレザクラ”は早くも五分咲き程度にまで花開いていました。
<早咲きの“ベニシダレザクラ”>
一日空けて4月2日(土)はお昼前から高野川へ向かいました。先日と同様に松ヶ崎橋から下流を眺めると、明らかに2日前よりもピンクの色が広がっていました。そろそろお花見のタイミングが到来したようです。
<色濃くなり始めました>
<一面のサクラ色に変わりゆく>
2日前と同様に近づいてみると、満開に近いものもありました。その足元には小さな白い花、紫の花が控えめに彩っていました。
<お花見出来ますね>
<小さな花も見てください>
高野橋下流まで進むと、春休みの休日ともあって家族連れで賑わっています。
<五分咲き程度のサクラの下で>
<お花見を楽しむ人びと>
空一面に白くたちこめていた雲が少し切れてきました。お日様の光も差し込んで花見日和となりました。シートを敷いて座った目前にサクラの花を眺める事の出来るスポットでは、お母さんと娘さんでしょうか、お弁当を広げておられました。
<薄日が差して>
<近いサクラの花の下>
サクラの花を眺めながらさらに進んで行くと、前方に団体様ご一行と出会いました。まち歩き企画を主催されている「まいまい京都」のツアーご一行様でした。
<前方に団体様ご一行>
<まいまい京都のまち歩きツアー>
午前中のツアーで、丁度ここで終了地点という事でお声をおかけしましたところ、このあと出町橋上流でお花見をされるという事で、一緒にどうですかとお誘いを頂きました。
一度ご一行と別れて、お花見をされている皆さんの様子を見ながら、指定された場所へ向かいました。
<目指すは出町橋右岸上流>
<指定された場所に到着>
私も個人的に鴨川のツアーガイドのまねごとをしていますので、皆さんのお話を聞きながら楽しいひとときを過ごさせていただきました。
<笑顔>
<笑顔>
<笑顔>
<笑顔>
楽しい時間はすぐに過ぎ去り、後片付けをしてこの日の花見巡りを終えました。
<ゴミを残さず後片付け>
<ゴミの持ち帰り有り難うございます>
翌4月3日は気象予報では雨が降りそうでしたが、ひとまず出かける事にしてみました。一日違いですが、サクラの花の咲き具合がグンと進みました。
お天気が心配ですが、この日もお花見の皆さんの姿が続きます。
<七分咲きくらいです>
<お天気が心配ですが・・・>
最近では、飲食店の和室でもイス席が用意されているように、高齢者に優しいイス席でのお花見を楽しんでおられました。
<イスに腰掛けて花見を>
年末から高野川に居ついている鹿2頭も、皆様がそっと見守って頂いているおかげ様で、警戒心を解いてリラックスしてウトウトしていました。
<護岸のそばで>
<ウトウト>
<ウトウト>
ふと川の中を見ると、子供の遊んだあとでしょうか、塩ビ管を石で固定して流れる水に少し細工されています。ただ落ちているだけなら単なるゴミもこうして見ると少し微笑ましい感じがします。中州にはドーナツ型に穴が掘られて、しみ出す水がお堀のようです。
親水施設をつくってお膳立てしなくても「自分で考えて遊ぶ」を感じました。
<落差工に>
<塩ビ管を伝う水>
<中州の砂地>
<お城のお堀の様に>
最近は、観光地でも和服で観光されている方をよく見かけます。和装なら割引ありという制度が浸透してきている様です。高野川の圧倒的なサクラに吸い寄せられる様にカメラを構えておられました。
<和装で観光>
目前で大勢の方が花見をする方を尻目に、川の中でゴミを拾う方もおられます。お花見の皆様も極力ゴミはお持ち帰り頂きます様にお願いいたします。
<お一人で>
<ゴミを拾う人>
出町のウッドデッキでは、三線の音色と柔らかな囃子太鼓の沖縄民謡が花見の雰囲気に色を添えていました。
<三線と囃子太鼓>
<沖縄民謡>
鴨川条例では、一部区間をバーベキューを禁止しています。その他の場所では苦情等があれば中止して頂くようお願いしております。バーベキューは火を使って食材を焼く行為です。
この日目にとまったのは、カセットコンロの上にスタンバイされた土鍋でした。この時期、夜になるとまだまだ肌寒い季節です。暖かい鍋を囲んで花見を楽しもうという事でしょう。年季の入った土鍋に趣を感じます。
※鍋はバーベキューにはあたりませんが、火の扱いには充分ご注意ください。
<土鍋>
<使い込まれています>
お天気が下り坂という事で、橋の下の寄り州をお花見会場にしているグループもあります。夜に向けての場所取りもお昼間のお花見も橋の下なら雨が降っても大丈夫です。
が、まとまった雨が降ると増水する可能性もあります。撤収の判断はお早めにお願いいたします。
<賀茂大橋の下 場所取り>
<丸太町橋の下 お花見>
中国からの観光客の皆さんが、日本全国で大勢お花見されていると報道されていますが、お花見されている外国人は中国人ばかりではありません。
お花見巡りをしていると、バングラデシュからの親子連れの方から記念写真をお願いされました。連れ合いがシャッターを押して差し上げました。
欧米からお越しかと思われる女性お二人も、サクラをバックに二人で自撮りされていました。
<バングラデシュから>
<欧米から?>
少し座ってゆっくりと花をめでようという事で、腰を下ろしてお弁当を広げました。周りには家族連れ、グループ、ご夫婦?といった様々な方がお花見をされていました。わかめちゃんカットの少女もサクラに包まれて。
<少しじっくりお花見を>
<座っていても手が届きそうな>
<わかめちゃんカット>
<ご夫婦でしょうか>
雨を心配しながら、お花見を楽しんでいるグループにお声をかけてみました。テニス仲間の皆さんでした。
<サクラの木の下で>
<楽しくお花見>
しばらくしてその場を離れて、さらに下流へ向かいました。途中楽器の練習をしている方とお会いしました。「それは何という楽器ですか」とおたずねすると、「マンドリンです」との返事が返ってきました。
“マンドリン”といえば、半分に割ったココナッツのような形をしているという印象をもっていましたが、このマンドリンは平べったい仕様だそうです。
少し演奏を聴かせていただきました。
<平たいマンドリン>
<二人で演奏>
昼間のお花見を楽しんだ皆さんは、ゴミの袋を下げて鴨川を後にされます。
ゴミは極力お持ち帰り願っているのは、ゴミ箱の食べ残しをカラスやトビが食い散らかしてゴミが散乱するという理由もあります。ゴミ箱に蓋をすればよいのですが、入りきらないゴミはどうしようもありません。
ゴミ箱に蓋をする。このゴミ箱は同じくゴミとして捨てられたものを組み合わせて蓋がつくられていました。古タイヤ、バーベキューの網が立派な蓋としてリサイクルされたようです。
<ゴミの持ち帰り有り難うございます>
<リサイクルされた蓋>
そのまま三条大橋まで進んで、花の回廊を眺めてお花見巡りを終了しました。
<三条大橋から下流を望む>
快くお話を聞かせて頂いた皆様有り難うございました。
鴨川真発見記をご覧の皆様も、誰もが気持ちよく快適に利用頂くため、持ち込まれた物(ゴミを含む)はお持ち帰り頂きますようお願いいたします。
鴨川のサクラも様々な種類がリレーする様に長い期間どこかで花を咲かせています。あなたにとってのお気に入りの場所を見つけてみませんか。
平成28年4月7日 (京都土木事務所Y)
鴨川真発見記では、これまでから鴨川や高野川の昔の様子を幾度となくご紹介してきましたが、今回は趣向を凝らして昭和47年の航空写真と当時の鴨川周辺の様子の写真を組み合わせて約40年前にタイムスリップしてストリートビューでご紹介してみたいと思います。
昔懐かしく思い出す方も、昔はこうだったのかと驚く方も今昔を比較してお楽しみ頂けたらと思います。また今回の企画では、三条大橋界隈の町並みの変化をご覧頂く中で“景観”を考える機会となれば幸いです。
航空写真は、京都府立総合資料館所蔵の京都府京都土木公営所文書の昭和47年航空写真を使用し、ストリートビューは同館所蔵の「近藤豊写真」を使用しています。
<航空写真 下流は勧進橋から上流は高野川合流点上流まで>
(京都府立総合資料館所蔵)
それでは、三条大橋付近を切り取ってみましょう。
<三条大橋上下流付近>
「近藤豊写真」は昭和34年から昭和48年までのものですので、航空写真とは若干年代が前後しますので、その間にも刻々と変化していくことが解ります。年代の古い写真からご紹介していきましょう。
最初の写真は、昭和34年の三条大橋右岸下流から橋を望むビューです。
現在のビューと比べて、写真左から木が生い茂っている以外に微妙な違いがあります。この違いが後ほどご紹介するこの場所に起こった大きな変化の跡となります。
それは、当時は三条大橋の一番西の橋脚は“みそそぎ川”の中に立っているのに対して現在はその外(東側)に位置しています。そして橋の下もフラットです。
<昭和34年4月27日>
<平成28年4月13日>
次は昭和35年三条大橋左岸上流側から西を見たビューです。川の中には、土嚢が積んであるようで、現在と比べると橋の下の敷石が破損している様に見えます。右岸側から修繕工事を実施していたのではないでしょうか。
<昭和35年4月19日>
<平成28年4月13日>
同年、三条大橋左岸北側橋の上から西を見たものです。当時は高いビルも無く広い空が続いていました。橋の西詰めに見える和風建築の建物は現在もビルに囲まれて存在しています。そこには明治時代創業“あられ・おかき”、江戸時代創業“たわし”の老舗が建物同様変わらず営業されています。
<昭和35年4月19日>
<平成28年4月13日>
三条大橋西詰めには、親柱と並んで三条大橋の橋脚であった石柱が設置されています。昭和35年にはすでに設置されていた事がわかります。現在の写真には京阪のビルの姿が見えています。
<昭和35年10月30日>
<平成28年4月13日>
昭和37年には少し視点を移して西詰め北側の擬宝珠と擬宝珠の間から北東方面を眺めると、比叡山が見渡せます。現在ではマンションが建ち並びそのほとんどが隠されてしました。
<昭和37年2月20日>
<平成28年4月13日>
時は進んで昭和44年の様子です。三条大橋の琵琶湖疏水の上辺りから南西方向を望む写真です。写真左端が三条京阪の駅です。
京阪の駅に重なる様に見えるビルの上には丸い桶の様な形の構造物が見えます。当時を知る方によれば、展望室だったと記憶しているとの事でした。
京都府立総合資料館の住宅地図バックナンバーで調べてみると、「都会館」という様々な飲食店が入居していたビルでした。
写真右端に鉄塔の様なものが写っています。これは何でしょうか?この後の違う視点からの写真で確認する事が出来ます。
<昭和44年7月15日>
<平成28年4月13日>
<展望室のあるビル>
駅の手前端に少し見えているのは、日よけのついた屋台の様なものが写っています。映画「ヒポクラテスたち」の画像では、「お持ち帰り寿司」の看板が確認できました。
当時、ほか弁やコンビニ弁当は無く、手頃なお弁当といえば寿司だった事が思い出されます。
先ほどの鉄塔の様なものはここでは何か確認できません。
<昭和44年7月15日>
<平成28年4月13日>
さらに北側に移動して西を見ると、鉄塔の様なものが何かを確認出来ました。手前の建物の奥に新たにビルが建設中でした。ひときわ高い鉄塔はクレーンのようです。橋の北側にもビルが建ち、丸いコカコーラの看板が見えます。現在の景観条例では不適合となりますね。
<昭和44年7月15日>
<同左>
当時は、京阪電車が三条まで乗り入れていて、琵琶湖疏水は開渠で流れていましたので、三条大橋は、鴨川と琵琶湖疏水をまたいでいました。写真に見えているのは、琵琶湖疏水側の東詰めなので、琵琶湖疏水の部分があって、途中で高欄が切れて堤防上に降りる階段があります。
昭和47年の航空写真に写っている歩道橋はこの時点ではその姿が見えません。
<昭和44年7月15日>
<平成28年4月13日>
<同上 鴨川・疏水間への入り口>
<鴨川・疏水間堤防上より>
さきほど昭和35年の三条大橋西詰め下の写真の際に、変化の跡とご紹介しましたものがこの後の2枚の写真に写っています。橋の下そのものズバリではありませんが、東岸上下流から見た写真で確認できます。
<昭和45年3月24日>
<昭和44年7月15日>
その内容は、以前京都新聞の記者さんからご紹介頂いた昭和43年4月24日の京都新聞朝刊の記事で知っていましたので、この写真に繋がりました。
記事の見出しは「美しい鴨川へ“池”づくり始まる 三条大橋下」です。記事内容を抜粋引用しますと、
<記事抜粋引用>
三条大橋下の鴨川右岸河川敷に“みそそぎ川”の水を引いた池を造ることになり、府土木公営所の手で工事が始まった。池の周囲には花壇を設けて面目を一新、完成すれば木屋町かいわいのネオンが水面にはえる“粋な橋下”としてお目見えする。
この池は長さ17メートル、幅14.3メートル、深さ20センチ。ちょうど”みそそぎ川”が橋下付近だけ拡幅された格好の遊水池になる。
周囲には貼り石を敷き、花壇を設けるなど“美しい鴨川”づくりに特に気をくばっている。また、蚊の発生源にならないように水が常にかわるよう設計、将来は噴水を取り付けられるように配管もすることにしている。
という内容です。この写真の撮影が昭和44年7月15日ですので、少し見えているのは、この池の下流側と上流側でしょう。
昭和44年当時の納涼床設置の様子も残されています。当時写っていたビルは大きくなり、京都ホテルオークラも見えています。今なお新たなビル建設のクレーンも伸びています。
当時は高水敷はコンクリート枠に土を入れたガタガタの歩きにくい構造でした。現在はご覧のとおりです。
<昭和44年7月15日>
<平成28年4月13日>
昭和48年には、老朽化した高欄の取り替え工事が行われました。昭和44年当時には和風建築物であった建物も洋風に建て替えられています。内装工事中の様です。更に現在では、有名なコーヒーショップとして3階建てのお洒落なビルへと変化しています。コカコーラの看板は“丸”から“四角”に取り替えられています。
<昭和48年11月18日>
<平成28年4月13日>
昭和48年の高欄取り替えの写真の中に、初めて京阪三条の歩道橋が出てきました。昭和44年当時の写真にはその姿はありませんでしたので、この4年の間に設置されたようです。
<昭和48年11月18日>
<昭和47年航空写真 京阪三条歩道橋>
歩道橋の上から西を望むと、昭和44年当時に建設中だったビルが完成し、現在一階にコンビニエンスストアが入っているビルが建設中です。現在この歩道橋はありませんので、道路上からの写真です。
<昭和48年11月18日>
<平成28年4月13日>
こうして、三条大橋からの景色は約15年の間に変化していきました。皆さんも三条大橋界隈の昭和47年航空写真をご覧になって興味深いものにお気づきになられましたら、是非ご連絡を頂きたいと思います。現在の航空写真はネット上で手軽にご覧頂けますので、比較してみるのも面白いですね。
※今回のモノクロのビュー写真は全て、京都府立総合資料館公式ホームページ内「京の記憶アーカイブ」より「近藤豊写真」を使用させて頂きました。
平成28年4月13日(京都土木事務所Y)
ソメイヨシノや早咲きのサクラの時期は足早に過ぎ去ってしまいましたが、今回は4月中旬見頃を迎えたサクラの様子と、京都府立植物園の名誉園長にして京都府立大学客員教授の松谷茂氏が「バトル」と呼ぶ現象をご紹介します。
遅咲きの桜は主に「八重」と呼ばれる花びらが沢山ついたサクラです。今回はその種類を特定する事はしませんが、ちょっとした発見を交えてご紹介したいと思います。
サクラ以外にも様々に花が咲く春です。御池大橋右岸上流の植え込みの裏側を覗いてみました。お馴染みのハルジオンが白い花を咲かせていました。糸の様に細い花びらが特徴ですが、別名「貧乏草」とも呼ばれているそうです。人間の植物に対する命名は時に残酷ですね。
<植え込みの裏へ>
<ハルジオン>
みそそぎ川に向かって隠れるように白い“ボケ”が咲いていました。こちらもその発音だけ聞くと「えっ!」となりますが、木になる瓜「木瓜(もけ)」が転じて「ボケ」となったそうですが、転じ方が残酷ですね。
多くの花言葉を持つそうですが、その由来は語り継がれていないようです。
「先駆者」「指導者」「平凡」「退屈」「早熟」「情熱」「魅感的な恋」「妖精の輝き」
さて、あなたならどの言葉をお選びになりますか?
<隠れる様に>
<ボケの花>
高瀬川と“みそそぎ川”の分岐点まで行くと、マガモとカルガモの交雑種が姿を見せました。綺麗な緑の頭を持つマガモの雄ですが、一緒に居たのは白っぽくなってしまっていました。
<みそそぎ川に流れ落ちる水>
<こんなに違う交雑ガモ>
高級ホテルの前でサクラの花を見上げると、白でもなくピンクでもない花が咲いていました。近づいてみると、薄い緑か黄色かといった色合いです。これは見たことがあります。「ウコン(鬱金)」とか「ギョイコウ(御衣黃)」などの黄色いサクラではないでしょうか。
これまで5年間鴨川を歩き続けて見た黄色いサクラは、正面橋に2本、そして御薗橋に1本の3本だけでしたが、ここに4本目を発見です。
<黄色いサクラみ~つけた>
銅駝高校の前にも八重のピンクのサクラが咲いていました。
飛び石に座っておられた女性は、スマホで動画を撮影されていました。ご自分を撮影されているのか?風景を撮影されているのか?上半身を半回転しながら撮影されていました。
<飛び石に座って>
<動画撮り?>
<左岸をぐるりと撮影>
みそそぎ川が暗渠から開渠に変わる場所に来ました。
以前から「みそそぎ川」と表示されていましたが、石に彫ってあるだけでした。いつの頃からかその文字に茶色の着色がされて見やすくなっていました。
<みそそぎ川 暗渠から開渠へ>
<この川は“みそそぎ川”>
上流に向かって歩いていると、例の「バトル」と遭遇です。バトルというのは、人間が造った構造物などの傍に植えられたり、自然に生えた樹木が成長するに従ってその構造物に何らかの影響を与える現象です。
この場所のバトルは、コンクリート擁壁の傍で大きくなった樹木を支障となるため伐採したものと思われます。伐採されてもその切り株から無数の手を伸ばすように枝が伸びています。
<激しい「バトル」に遭遇>
<崩れるコンクリート擁壁>
伐採しても根の勢いは弱まらず、ついにはコンクリート擁壁を破壊してしまったようです。隣にはまだ小さい切り株の根っこが寄り添うようにバトルしていました。
<助けを求めて手を伸ばすように>
<大きくなる前に伐採>
構造物が先か、樹木が先かというケースもあります。伐採されずに残されている大木は、石積みと一体となっています。このケースはバトルしながらも構造物と同化している様にも見えます。
<石積みの下から幹>
<石積みの上?>
<上から下がってきています>
<芸術的な根の絡まり>
鴨川真発見記第230号でご紹介しました新たな公園整備箇所では、養生中の芝が緑色の葉を出して公園らしくなってきました。ここにも新たな木が植樹されました。いつの日か「バトル」が勃発するかもしれないと思いながら園路を進みました。
<どこまで大きくなるのでしょう>
<いつかはバトル?>
<緑に囲まれた園路>
<その先には>
すると、ここにも八重のサクラが満開を迎えています。新しく植えたサクラにしては立派に咲いているなと感心しながらその足元を見ると、なにやら札がぶら下がっています。
<ピンクの八重ザクラ>
<元気に咲いています>
そこには、
「お知らせ」御薗橋改修工事に影響するため、当樹木をやむを得ず移植いたします。移植の時期は平成27年11月4日~6日を予定しています。
と書かれていました。
<御薗橋から>
<新たな安住の地へ>
そうです。鴨川真発見記第212号でご紹介しました御薗橋拡幅工事により伐採された樹木とともに支障となる樹木のうちの一本でした。
大きくなりすぎて移植が出来ない樹木は伐採となりましたが、移植が可能なものは一時的に疎開して鴨川のどこかに戻ってくる予定です。
このサクラは御薗橋右岸下流に3本並んで咲いていた八重のサクラのうちの一本です。他の2本はまだ疎開先で預かられているようですが、そのうちの一本が先ほど「御薗橋の黄色いサクラ」とご紹介しました一本です。
その2本も疎開先で満開を迎えている事でしょう。何はともあれこの一本は鴨川に新しい居場所を確保したようです。
<2015年御薗橋の八重ザクラ>
<4月15日満開>
同じく鴨川真発見記第230号でご紹介しました、左岸で進められている護岸の災害復旧工事は、石積みが完成間近となっていました。
<進む災害復旧>
<積み上がる石積み>
先を急いで上流に向かいました。一本の木に濃いピンクと真っ白の花を咲かせる樹木(サクラなのかわかりません)を見たいと気がはやります。
辿り着いてみると、花は残っているものの半分程度散ってしまっていました。少し残念ですが、また来年早めに見に来ることにしましよう。
<2016年4月13日 散りました>
<2015年4月8日 満開時>
加茂街道沿いのサクラはのびのびと「バトル」すること無く成長しています。横を通る市バスと比較するとその大きさがわかります。太い幹の老化した部分にも、雨風から守られる様にその花が残されていました。
<加茂街道沿いのサクラの老木>
<守られる様に咲く花>
「自然との共生」という言葉はよく耳にしますが、共生がうまくいかない状況を作り出しているのが“人間”というのも事実です。植物にしても、将来どんな状況となるのかをよく考える必要があることを感じさせてくれる「バトル」です。
松谷氏からこの言葉についてお話を伺ったのは、平成25年6月の事でした。以来そういった場面に遭遇すると、ここにも「バトル」発見とシャッターを押してきました。そんな中の数枚をここでご紹介したいと思います。
護岸の石積みの隙間からも自然生えの樹木が根を張っています。そこから毎年新たな枝を伸ばしてきます。その新たな枝を草刈りの時に刈り取って、また生えての繰り返される「バトル」です。
<2014年5月15日>
<2014年6月27日>
高野川沿いのお家のフェンスにも、「バトル」の跡が残されています。フェンス際で大きくなった樹木の枝がフェンスを体内に取り込んでしまったのでしょう。本体は伐採されましたが、フェンスを修繕すること無くその枝の一部を残す事となったようです。
<天狗のお面の様に>
<宙に浮くように>
<同左>
電線に野鳥が止まっているのかと思いきや、ここにも「バトル」の跡がありました。先ほどのフェンスと同様に体内に取り込んだ電線部分だけ残されていました。
<野鳥じゃないよ>
最後にご紹介するのは、根っこのバトルです。石積みなどで行く手を阻まれた根が座り込みをする様に「バトル」していました。
<狭いところに座り込み>
<根の行く手は阻まれる>
街路樹や自然生えの樹木など、街中のいたる所で「バトル」を目にします。
このバトルを見て皆さんは何を感じますか?
松谷氏からは、「生き抜く」凄まじい力を見た気がするし、「そう簡単にくたばったらアカンで」の声が聞こえた!のメッセージを頂きました。
皆さんも少し気にして「バトル」探しをしてみませんか。
平成28年4月14日 (京都土木事務所Y)
音羽川砂防堰堤で進められている耐震補強工事については、鴨川真発見記第223号で養徳小学校の児童が現場見学をされた様子と共にご紹介しました。
今回は、その工事の中で堰堤の増し打ちの準備工として施工されている作業の様子をご紹介したいと思います。
<農業用水などを取水するため取水口側に寄せて水を流す>
工事の担当者から、京都土木事務所では“おそらく”初めてという工法を採用したので現場を見学に来ませんかとのお誘いを受けました。
技術職員に混ざって私も現場にお邪魔しました。通称「ロッククライミング工法」正式には「高所法面掘削機による掘削工法」といいます。
この工法は国土交通省新技術登録の特許取得重機で、高い所の急斜面で作業するものです。
現場に到着すると、岩を砕く音が辺りに響いていました。特殊重機がまさに「ロッククライミング」の様に高所の岩にへばりついて作業を進めていました。
<音羽川砂防堰堤>
<岩盤にへばりつく特殊重機>
山の中の丈夫な樹木何本かにベルトを掛けて、そのベルトにワイヤーを繋ぎ、現場まで何本ものワイヤーをジョイントして引き出してきます。
<山の中から伸びたワイヤーとジョイント>
アンカーを打ち込むのではなく、樹木を利用するのには訳があるそうです。アンカーの場合、抜ける時には前触れ無く抜けるのですが、樹木の場合はぐらつくなどの前兆があるので危険を察知できるとの事でした。
現場まで到達した2本のワイヤーに、特殊重機の後部にある2つのウインチに接続すると、現場の下から崖を登って行きます。
<ワイヤー ベルト ジョイント>
<がっちりジョイント>
上まで登ると、現在の堰堤と新たに施工する増し打ちコンクリートの準備の為に山肌の岩盤を砕いていきます。ラジコンでも操作できますが、今回はオペレーターが乗り込んで作業をしておられました。
<下を向きました>
<淡々と作業を進めるオペレーター>
砕かれた大きな岩が堰堤沿いに転がり落ちると、その下には水が貯めてあり、水の中にダイビングします。この水がクッションとなって、岩が飛び散るのを防いでいました。
<転がり落ちる岩>
<水の中に収まる岩>
スキーでもそうですが、下から見ていると急斜面もさほどでも無いように思いますが、実際に上に登ると足がすくむものです。
下から見学していましたが、現場の傍まで行ってみる事になりました。
<施工業者さんの説明を受けながら>
砂防堰堤脇の急な階段を登って堰堤の上に到着すると、京都市内が見える高さです。
<堰堤の上からの眺望>
<この高所での作業>
堰堤の真ん中から下を見下ろすと、やはり足がすくみます。とうとうと流れる水とクッションの水が見えます。こうして見る水は多様に利用されている事を改めて考えさせられます。
<堰堤の真ん中へ>
<岩がザブンとダイブ>
現場では、岩盤や既設のコンクリートの様子を探りながら作業が進められていました。現場代理人の方から、的確な指示が飛び、慎重にかつ大胆に特殊重機が活躍していました。
<響く削岩音>
<削り過ぎないように>
鴨川真発見記第223号でもご紹介しましたとおり、3年連続の大雨で山から土砂が大量に流れ出て、最下流に溜まった土砂は撤去しました。
この堰堤の上流側も土砂が多く堆積しました。今から4年前の2012年5月に来た時には、下の写真の様に「ボードウォーク」の姿が見えましたが、現在完全に埋没しています。
<ボードウォーク>
<完全に埋没しました>
この土砂の堆積を見ると、音羽川周辺は砂防堰堤に守られている事を実感します。私も音羽川沿いに住む者として。
平成28年4月22日 (京都土木事務所Y)
冬鳥のカモ類たちが北方へ飛び去り始め、鴨川の中も少し寂しい感じがしますが、新緑が目にまぶしい季節となりました。
鴨川でも“ツバメ”が飛来して飛び回っています。毎年子育ての姿を見る事が出来る鴨川の傍のお店の軒先でツバメの姿を間近に見る事ができます。
巣から燕尾が見えていたので、入居したのを確認していると、もう一羽が帰ってきました。何枚か写真を撮っていると、目が合いました。次の瞬間首をかしげていました。
<ツバメの尾羽 燕尾>
<目が合うと>
<首をかしげて>
少し休憩して、鴨川へ餌を求めて飛び去りました。
<新緑の鴨川へ>
<飛び去りました>
高野川では、八重の桜が盛りを迎えました。近くの工芸繊維大学の学生さんが“ウクレレ”と“フォークギター”の伴奏で歌の練習をされていましたので、お声を掛けて一曲披露して頂きました。
曲によってギターの弾き手を交代されていました。彼らも将来有名になったら、「高野川の桜の下で練習していました」なんてコメントするのでしょうか。
<高野川沿いの八重ザクラ>
<サクラの下で>
<“ギター”と“ウクレレ”の伴奏>
<弾き手交代>
ピンク色の八重の桜は、いつ見ても桜餅を連想します。丸くたわわな花に葉が添えられた様子がとても美味しそうです。
<桜餅の様な八重のサクラ>
川の中では、靴を脱いだ短パン姿の女の子が足を水につけながら、元気に歓声を上げていました。
<川の中に歓声>
<靴を脱いで>
松ヶ崎橋から川の中を覗くと、一時期よりは数は減りましたが、特定外来種の“ヌートリア”の姿がありました。京都府自然環境保全課からの依頼で「餌やりをしないで」という呼びかけの巡視が「公益財団法人日本鳥類保護連盟京都」の皆さんによって行われています。
高野川はそのコースに入っていませんが、餌やりをすると、爆発的に増えてしまいますので、皆さんも餌やりはしないようにお願いいたします。
<松ヶ崎橋>
<ヌートリア>
また別の日、鴨川へと向かうとスロープの端に“ドバト”の遺骸がありました。カラスか何かに襲われたのでしょうか。散らばった羽毛を拾いにやって来たのは数羽の“スズメ”でした。
一度に沢山の羽毛をくわえようとしています。口いっぱいにほおばって、子育てをする巣作りに使うのでしょう。死しても何かのためになる。そんな自然界の営みを目の当たりにしました。
さぞかし暖かいねぐらが出来る事でしょう。
<スロープ沿いに>
<“ドバト”の遺骸>
<そこへ“スズメ”がやって来て>
<一枚一枚拾って>
<束ねていきます>
<頭が隠れるほどに>
流れの緩やかな川の中では、マガモのオスとメスがぽかりと浮かんでいます。その周りには小さな“ヒナ”が7羽思い思いに遊んでいました。
<広い空間にマガモの“オス・メス”ペア>
カルガモのメスがヒナを率いている姿はよく目にしますが、マガモのオスとメスがヒナを見守っている姿には初めて遭遇しました。
外見からするとマガモとカルガモの交雑した個体では無いように見えます。交雑でないマガモが鴨川で繁殖している様です。
<マガモのオスとメス>
<交雑はしていないように見えます>
<母ガモに寄ったり>
<離れたり>
広い空間をこのマガモ一家が独占している間をカワウが中央突破していきます。近くの中州では、オスのマガモが2羽、番をしているように座り込んでいました。
<カワウが中央突破>
<じっと座り込む2羽のマガモ(オス)>
しばらく一家水入らずの時間を過ごすと、お父さんガモが中州の2羽に近づいて行きます。何かの合図なのかひと鳴きすると、2羽のオスガモが腰を上げました。
<2羽に向かってひと鳴き>
<2羽が続きます>
2羽のオスガモが川の中に入ると、一家は川岸へ寄って独占していた空間を譲ったように見えました。カモも譲り合っているのでしょうか。
<空間を譲るマガモの一家>
その下流には、メスだけがヒナを率いている姿も見る事ができました。
<橋の下>
<9羽のヒナを引き連れて>
そんなマガモの親子を見ていると、お姉ちゃんと弟の二人も礫川原となった寄り州に降りてきて、石を並べて遊び出しました。高水敷のベンチからはお父さんが優しい目で見守っておられました。人も野鳥も親子の姿がそこにありました。
<石を並べて>
<川遊びの定番>
川の中で魚をついばむ“コサギ”の尾羽が垂れ下がっています。夏に向けて羽が生え替わっているのでしょうか。中途半端に垂れ下がっているのは本人は気にならないのでしょうか。
<抜けかけた羽 コサギ>
<落としたら拾ってあげましょう>
気持ちの良い晴れのこの日は、水際に人が集まります。若者に混ざって親子連れの姿もあります。
緑の戻った芝生の周りでは、バレーボールやペタンクなど思い思いに過ごす人びとの姿もあります。
まだ若い“アオサギ”が獲物を狙ってたたずんでいます。うまく捕獲できるかな。
<橋の下の日陰で>
<若者と親子>
<バレーボールを手に>
<こちらはペタンク>
<アオサギ>
<獲物はいるかな?>
木製の小さなテーブルとイスが並べられ、ティータイムの始まりです。即席の鴨川オープンカフェといったところでしょうか。お声かけして後ろ姿を一枚撮らせて頂きました。
<ピクニックセット>
<オープンカフェ?>
<緑に包まれた鴨川で>
<お茶する人>
<様々に憩いのひととき>
暑くも無く、寒くもなく、最高のピクニック日和に鴨川で過ごす人びとと野鳥たち。贅沢な時間を堪能されたことでしょう。ただし、何か食べる時は上空から狙うトビに充分ご注意ください。
平成28年4月25日 (京都土木事務所Y)
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