トップページ > インフラ > 公共事業・一般 > 鴨川真発見記 > 鴨川真発見記 平成26年8月

ここから本文です。

鴨川真発見記 平成26年8月

 第162号 小ネタ集再び 鴨川の魅力に魅せられて

初めて目にする光景あり、美しい光景あり

 ある日の夕暮れ時に鴨川で空を見上げると、広く開けた空にその時々に雲と夕日が織りなす風景が広がります。空のキャンバスに自然が描き出す風景は刻々と姿を変えていきます。そんな空間で、カップルが語らい合う光景もよく目にします。空の様子を見上げながら何を語らうのでしょうか。

<高く広く青い空に照らし出される雲>

<その下のベンチで語らうカップル>

 高野川では、柑橘系の実が流れて行きます。疏水分線の傍にあるお地蔵さんの横に植えられた木から落下した実が高野川へと流れ込んできます。以前疏水の記事で紹介しましたとおり、疏水の水は高野川に全て落ちています。この実がその事を実証しているようです。

<黄色いボールのような>

 この実が“夏みかん”かどうかはわかりませんが、広辞苑によると「夏に花を付けて秋に黄色く熟するが、翌年夏から秋に食する。」とあります。一冬越して“甘み”が出てから食するのですね。夏に実がなるから夏みかんではないそうです。いつも実を付けていて不思議だなと思っておりました。

<柑橘の実です>

<お地蔵さんの横の木>

<右が疏水分線>

 夕暮れの出町の合流点で、上流に向かって手を合わせる若者がいました。下鴨神社に向かってここからお参りされているようです。この付近もアニメの聖地巡礼の地の1つとなっています。アニメの中に同様のシーンがあるのでしょうか。

<下鴨神社方向に手を合わせる若者>

 また違う日の出町の様子です。賀茂大橋の上から西の空を眺めると、綺麗な夕日が空を赤く染めています。その空の下、同様に赤く染まった鴨川の飛び石で足を流れに浸しながら語らう若者の姿もありました。

<薄紅色に染まる出町>

<建物のシルエットが浮かび上がります>

<夕焼けに包まれながら 水面に人の影が映ります>

 夏の暑い日、出町の水場では足を冷やして川を眺めながら仲良く“おやつ”ほおばる姉弟と出会いました。お母さんの許可を得て後姿を撮影させていただきました。鴨川で何か食べる時は上空の“トビ”に注意してくださいね。

<冷たく綺麗な水で足を浸しながら>

 鴨川の護岸の石積みの間からは、様々な植物が顔を出しています。遠目にはコケかなと思う形状ですが、近くに寄ってみると肉厚の細長い葉が密集していました。なんという名の植物でしょうか。

<遠目にはコケのようにも見えますが>

<近くで見るとこんな感じです>

 “アオサギ”が羽の先だけを広げて日光浴する姿は度々目にしますが、この日は“ダイサギ”が同様の姿で日光浴していました。鴨川のサギの仲間でこの姿を見せるのは“アオサギ”だけと思い込んでいましたので、少しビックリです。百聞は一見にしかず。新たな鴨川真発見となりました。

<ダイサギのこの姿は初目撃です>

 鴨川や高野川で見かけるカメといえば、“ミッシッピアカミミガメ”ばかりでしたが、この日は珍しく“イシガメ”に出会うことができました。川の中で佇む姿を眺めていると、ゆっくりと草むらに消えていきました。甲羅が少し割れているようにみえました。

<“イシガメ”の姿が> 

<大きな瞳>

<少し傷ついた甲羅>

<草むらへと消えていきました>

 カメと似たような形状で鴨川や高野川でもちょくちょく姿を見かけるのが“スッポン”です。いつも見かけるのは、川の中を泳いでいたり、川から飛び出した石の上で甲羅干しをしたりしている姿ですが、この日は少し様子が違っていました。

 高水敷を歩いていると、何やらモゾモゾと動くものが視界に入りました。よく見るとスッポンが川から上がってきています。自力で上がってきたのか、はたまた人が捕獲して放置したのか定かではありませんが、川の中以外で過ごしている姿を見るのは初めてです。

 最近、鴨川の四条辺りの高水敷で大きな“オオサンショウウオ”が歩いていると話題になりましたが、スッポンが高水敷を歩いているのも珍しいです。

<モゾモゾと前進するスッポン>

 先程ご紹介しました“イシガメ”の大きくつぶらな瞳に対して、“スッポン”の目は体の割に小さくて鋭い目の様に見えます。真上からみると、寄り目をしている様にも見えます。どんな視界が広がっているのでしょう。

<体の割に小さな目>

<寄り目の様にも見えますが・・・>

 鴨川での風景、人、動植物、そんな小ネタ集ひとつひとつがその魅力となって目に飛び込んできます。これからもその時々の鴨川・高野川の様子をお届けしたいと思います。

 

平成26年8月6日 (京都土木事務所Y)

 

 第163号 平成26年台風11号上陸、その時鴨川は

京都土木事務所も台風への備え

 平成26年8月10日(日)台風11号が日本に上陸しました。昨年の台風18号に迫る勢いの強い台風に鴨川を始め京都市内の河川の水位もかなり上がりました。

 今回はその台風への備えと、増水時そして翌日の様子をご紹介したいと思います。

 京都土木事務所では、大雨や洪水の注意報が発表された場合には2人体制、警報が発表された場合には4人体制で雨量や水位の監視をし、指定水位に達した場合には水防団待機情報、氾濫注意情報(水防団出動)をそして1時間後の予想水位が指定水位を上回る場合は洪水予報を発表しています。

<水位情報の一元管理>

 今回の台風第11号は、大雨を伴った低気圧に続いて上陸するもので、しかも土曜日・日曜日の休日とあって、24時間8人体制を組んでの対応となりました。

 私は土日それぞれ昼間の班に組み込まれました。大雨・洪水の注意報なら通常の2人体制、警報が発表されると即8人体制という事で、朝8時過ぎには警報が発表され、招集の連絡が入りました。

 9日土曜日の雨は比較的穏やかで、府民の方から寄せられる災害関連情報も倒木が主なものでした。しかし、自然相手の水防待機はいつ何が起こるかわかりません、夜の班も引き続き8人体制に引き継いで事務所を後にしました。

 翌日も朝から8人体制です。午前中は電話も鳴ることなく静かに過ぎていきました。同僚の「嵐の前の静けさとはこの事か。」という言葉と共に。

 お昼の時間になって、お弁当を食べていると台風が本州に再上陸というテレビからのアナウンスが聞こえます。外を見ると大粒の雨と強風が吹き荒れはじめました。京都市内の水位計の設置された各河川の水位がみるみる上がっていきます。

 水防団待機情報送信、水防団出動情報と各河川毎にFAXを送信して受信確認となりますが、複数の河川が同時期に指定水位を超え出すとファックス受信確認だけでも混乱が生じてきます。加えて一般府民の方からの災害情報の電話が入り更に慌ただしくなってきました。

 夜班の職員に連絡して更なる増員体制を組みました。京都土木事務所の前の鴨川も昨年の台風18号並みの増水を見せています。午前中は普段と変わらない位の流量だったと、普段巡視をしている職員も驚いています。

 私は、鴨川を隅から隅まで知り尽くしている巡視担当の職員さんと、下流の様子を巡視に行く事になりました。車に乗り込んで、まずは一気に塩小路橋まで南下しました。

 道中、鴨川の見える加茂街道沿いでは、台風による増水にも関わらず、洪水敷で犬の散歩をしてる方がおられます。中には傘をさしている方も・・・。強風で傘があおられる可能性もあるので危険です。

<車窓から見る北大路橋上流>

<小降りですが、まだまだ雨が降っています>

<落差工付近ではうねりが起こります>

 増水時の川に近づく事は大変危険ですので、絶対お止めください。足を滑らすなど、絶対大丈夫という事はないのですから。事実増水時の川を見に入って流される方が全国で後を絶ちません。自分の命は自分で守りましょう。

<平常時の北大路橋上流>

 程なく塩小路橋に到着です。この地域では昨年の台風18号同様に高水敷は完全に水没して川幅いっぱいに濁流が流れています。川へと続くスロープには立入禁止のバリケードを設置し水際に近づけないようにしています。

<鴨川公園全域に立入禁止措置>

<塩小路橋から上流七条大橋を望む>

 上流の架橋100周年を終えた七条大橋も水位が橋脚の一番上に近い処まで上がっています。もう少しでアーチ状の桁に迫る勢いです。昨年の台風18号時には、七条大橋の上から撮影しましたので、その下がどうなっていたのか解りませんが、同様の状況だったのでしょう。

<ここまで水位が上がっています>

<平常時の七条大橋下の水位>

<塩小路橋から下流を望むJR橋>

 

<JR橋下の道路は余裕が少ししかありません>

 五条大橋にやってきました。当然のことながらここでも高水敷は完全に水没しています。

<五条大橋を上流左岸から望む>

<平常時の五条大橋下の水位>

<“みそそぎ川”は鴨川にのみ込まれています>

 五条大橋の上から見ても昨年の台風18号並みの水が流れています。報道関係のカメラも現地からの中継でその様子を伝えています。五条大橋下流の高水敷は少し高くなっていますが、雨水吐口はもう少しで鴨川の水に塞がれてしまいそうです。

<五条大橋から上流を望む>

<五条大橋から上流平常時>

<五条大橋から下流を望む>

 

<五条大橋下流左岸の雨水吐口>

<増水の様子を伝える報道カメラ>

<レポーターもスマホでパチリ>

 さて、芝を貼り養生していた三条・四条界隈です。昨年の台風時には、完全に水没し芝も流された区間ですが、今回は水が上がっているものの、流木や瓦礫が乗るほどには水位が上がっていません。流速も遅くみそそぎ川に“京の七夕”で設置されたモニュメントでせき止められた水が、鴨川側に横断方向に流れているようです。

<下流から四条大橋を望む>

<四条大橋下の平常時の水位>

<四条大橋から下流を望む>

 

<四条大橋から上流を望む>

<右岸の高水敷は水没>

<ところどころ芝が見えています>

<平常時の四条大橋から上流を望む様子>

 

<三条大橋の橋脚に当たった流れがスーと流れて落差工で暴れます>

<“みそそぎ川”から鴨川へ水が流れ込みます>

 それに対して三条御池間は完全に水没しています。どうなることでしょう。

<“どっぷり”と水に浸かった御池大橋から三条大橋間>

<平常時>

 丸太町橋まで行くと、橋の下には水が上がっているものの、前後の高水敷には水が上がっていません。

<丸太町橋から上流を望む>

<巡視職員が橋の下を確認>

<平常時の丸太町橋から上流を望む>

 荒神橋です。ここは、増水時に流速を観測する場所であり、鴨川の洪水予報を発表する基準となる水位計が設置されています。

<荒神橋下流>

<荒神橋水位計>

 賀茂大橋の上では、通行する方の傘が下流からの強風で雨が吹き付けます。

 ここでも巡視職が橋の下を確認します。

<傘を下流に向けて>

<吹き付ける雨に巡視職員の姿もばやけます>

<高野川との合流点を望む>

<平常時の出町合流点>

 そして一気に柊野堰堤まで北上し巡視です。鴨川の市街地では最上流にして、最大の落差の迫力は満点です。近所の方や車で乗り付けた方の人だかりが出来ています。再三申しあげていますとおり、増水時の川には近づかない様にしてください

<柊野堰堤>

<大きな落差で水しぶき>

<うねる水流>

<庄田橋から下流を望む>

<平常時の柊野堰堤>

 柊野堰堤上流のグラウンドも昨年同様池と化してしましました。公園内の大きな木も強風にあおられて根元から折れています。川の水だけでなく、強風時の樹木の倒木にも注意が必要です。

<柊野グラウンド 駐車場も浸水>

<グラウンドも池状態>

<被災状況を記録>

<グラウンドから駐車場へ流れる水>

<通路を塞いで倒れた樹木>

<根元からボキッと>

 我々は、職務として危険回避、災害確認、大雨の記録を行っています。増水した川の上流で更なる大雨が上流域で降れば、あっという間に水位が上がります。今回の台風では、最上流域の雲ヶ畑で沢山の雨が降り1時間半程の間に一気に水位が上昇しました。市街地が小降りでも水位がグンと上昇する恐れもあります。

 事務所に戻り、夜の班と引き継ぎをしてこの日の私の任務は終了しました。

<所長を交えて引き継ぎの様子>

 この台風による鴨川への影響は後日ご紹介しようと思いますが、この記事を書き上げる前、8月10日の翌週の土曜日16日にも同規模の増水がありました。

 8月に2週連続同規模の大増水です。今後も鴨川で一気に増水して溢れる危険があります。増水時は川を見に行くのではなく、氾濫の危険が迫った時に何処へ避難するのかを今一度ご確認願いたいと思います。

 

平成26年8月19日 (京都土木事務所Y)

 

 第164号 鴨川で“パフォーマンス”練習の成果を

実演:鴨川の舞台で演技披露

 鴨川真発見記では、様々な方のパフォーマンスの練習光景をご紹介いたしました。そんな鴨川を練習フィールドされている方が鴨川に設営された舞台でその成果をご披露されました。

 今回は、8月2日・3日に開催された「鴨川納涼床2014」の仮設舞台で繰りひろげられたパフォーマンスのうち、鴨川真発見記でご紹介させて頂いた経歴のある方々の晴れ舞台をご紹介したいと思います。

<曇り空の鴨川納涼会場>

<三条大橋下流右岸に設置された仮設舞台>

 1日目の舞台では、鴨川真発見記でご紹介した方のご出演は無かったので、舞台を離れて会場を歩いていると、以前三線でアンパンマンの歌を奏でておられた方が、沖縄県人会のブースの前で三線を演奏されていました。この方々も翌日舞台での出演が予定されています。来場された皆さんも足を止めて聞き入っておられました。

<島唄に道行く人の足も止まります>

 多くの人で賑わう会場を回っているうちに、小雨が落ちてきました。会場に傘の花が咲き始めました。

<小雨が落ちてきました>

 夜も更け始めて、七夕飾りのイルミネーションがみそそぎ川を照らします。その明かりの下で水際に腰を掛けて涼む来場者の姿があります。霧のような小雨が、ミストのように舞い降り、風に乗って涼を運んでくれていました。

<“みそそぎ川”の水際に座る来場者>

 京都府河川課と京都土木事務所の啓発ブースでは、夏休みも中盤を迎えた小学生が、川で遊ぶ時の注意を読んでくれています。川で遊ぶ時はくれぐれも御注意をお願いいたします。子供だけで川に入らないようにしましょう。

<無事カエル>

 一夜明けて2日目のステージです。前日のお会いしました高畠さんのグループの演奏でスタートです。鴨川真発見記第117号でご紹介しました時に島唄と共に聞かせていただいた“アンパンマンのマーチ”も披露され、会場も盛り上がりました。

<三線の演奏>

<“アンパンマンのマーチ”も披露されました>

<鳴り物は女性が担当>

<ボーカルは高畠さん>

 そして、こちらも約1年前の鴨川真発見記第109号でご紹介しました「世界をつなぐ鴨川ダンス駅伝」です。以前ご紹介したのは、鴨川を移動しながら、鴨川全体を舞台にして繰りひろげられた「鴨川ダンス駅伝」です。

 今回は、設営された舞台でのパフォーマンスです。それでも、従来のダンスの枠に捕らわれない自由なダンスです。客席も舞台にしてしまう観客も一体となったパフォーマンスが繰りひろげられました。

 ダンスの途中から小雨が落ちて来て、出演者も濡れてしまいましたが、自然のままのダンスには雨も演出の様に感じます。後日、代表の小林さんから「出演者皆濡れてしまってその後のパフォーマンスを見る事が出来ませんでした。いつも通り自由に表現できました。」と連絡を頂きました。

<自由な発想の創作ダンス “鴨川ダンス駅伝”>

<小雨の中での熱演>

<不思議な空間が広がります>

 小雨が続く鴨川納涼会場ですが、中央ステージも賑やかに「熊本の山鹿灯籠踊り」「阿波踊り」「フラダンス」とプログラムが続いていきます。

<山鹿灯籠踊り>

<阿波踊り>

<フラダンス>

 舞台も最後の演目となる頃には、雨足が強まり「このまま降り続くと舞台中止となります」と司会の方からのアナウンスがありました。

 しばらく様子をみる事となりました。すると「なんという事でしょう。」雨足が弱まり、やがて雨が止みました。最後の演目はというと、この方も鴨川で練習されている様子を鴨川真発見記第118号でご紹介させて頂きました西川さん率いる「フラダンス&タヒチアンダンス」のチームです。

 大地の恵みに感謝するフラダンスが鴨川で披露されました。みなさん笑顔でとても楽しそうに演目を披露されました。残念ながら、会場の客席は雨に濡れて座る人はまばらですが、立ち見の観客の皆さんが大勢カメラを向けておられました。

<フラダンス&タヒチアンダンス>

<立ち見の来場者>

 最後はフラダンスチームの皆さんの記念撮影で“鴨川納涼2014“は全ての演目を無事終了する事ができました。

<そして舞台はフィナーレへ>

<無事終了 記念写真>

 鴨川に舞台を設置する事に関しましては、賛否両論あり、試行的な仮設舞台の設置です。来場された皆さんの目にはどの様に映ったのかは、アンケートの結果を待つばかりです。

 あいにくの雨模様となりましたが、皆さんのパフォーマンスは素晴らしいものでした。

 

平成26年8月27日 (京都土木事務所Y)

 

【おまけ】

 鴨川納涼2014の開催前の数日前に、会場を見に行きました。三条大橋下流の護岸に設けられた足場に設置された板の上で涼む方の姿がありました。鴨川納涼床は、江戸時代は川の中に床几が設置されていましたが、現在では“みそそぎ川”の上に設置されているのみです。

 鴨川の水に最も近い位置でウッドデッキの様に設置されたこの場所が、昔に近い形で利用されている光景が印象的でした。

 

 第165号 水が繋ぐ人の縁シリーズ第4弾

人の縁が明治期に存在した“蓼倉川”を繋ぎました その1

 今回は、水が繋ぐ人の縁シリーズ開始のキッカケとなった、今は存在しない農業用水路“蓼倉川”のお話しをご紹介したいと思います。

 この農業用水路“蓼倉川”開削碑が下鴨小学校に今も設置されています。開削当時は、蓼倉川の傍(現在の高野川から北大路通りを西へ2つ目の“高木町バス停“)に設置されていたそうです。その後何度かの移転を経て下鴨小学校に収まっています。

 明治12年に開削され建立された碑文は風化が進み、肉眼では文字は読み取れない状況です。しかも漢文で書かれているので、一般の方には読み解く事ができません。先人の労苦を後世に伝えようと、京都産業大学名誉教授で賀茂文化研究会会長の勝矢氏が代表者となり、地元の有志が発起人となって「水路開削碑説明板設置委員会」を結成されました。

<水路開削碑 一見しただけでは何か解りません>

 賛同者の寄付を募って開削記念碑の説明板を設置する活動が始まりました。開削記念碑は漢文ですので、まずは碑文の書き下し文を作成されました。その書き下しに協力されたのが京都西山高等学校国語科の石垣氏です。

※水路開削碑の文面と書き下しをみる(PDF)(PDF:94KB)

出典:小松 明「明治十二年の『水路開鑿碑』から想いを馳せる」、賀茂文化、第5号、平成20年4月

 そして、この説明板設置工事の日(平成26年4月4日)に発起人のお一人で面識のある椎村氏からお誘いを受けてその様子を拝見しに下鴨小学校を訪ねました。

<設置工事を終えた説明板>

 その場で、郷原氏の随筆に提供した写真(高野川での友禅流し)を預かられておられる勝矢氏と初めてお知り合いになりました。校長室でしばしの談笑の中で廣庭氏(鴨川真発見記第156号第159号参照)の事を知り、そして勝矢氏からの依頼を受ける事となりました。

 その依頼とは、「今では存在しない“蓼倉川”ですが、みんなが知りたいのは何処を流れていたかです。川を管理している土木事務所の方なら何かわかるでしょう。」そうです、かつての“蓼倉川”が何処を流れていたかの追跡です。

 農業用水路は京都土木事務所の管理外で手掛かりも少ない中です。躊躇しましたが、この用水路は“音羽川”から水を引いたとあるではないですか。京都土木事務所の管理河川から水を引いたという事なので、ダメもとで取り組んでみようという事になりました。

 “蓼倉川”捜索は、「水か繋ぐ人の縁」の如く川が御縁で知り合った方々の多大なる御協力の元、最終的には現在の地図にその流路を示す事が出来ました。その顛末は、「ミッションコンプリート:蓼倉川を追跡せよ」としてまとめましたのでそちらをお読みください。

※「ミッションコンプリート:蓼倉川を追跡せよ」を読む(PDF)(PDF:183KB)

 この農業用水路が開削された背景は、碑文の説明板に示されているとおり、当時水不足に苦しんだ下鴨村の人々が自らの手で開削されたということです。

 農業が盛んであった頃、川筋の上下流、左右岸で隣接する村々では度々水争いを繰りひろげられていました。京都市編纂の資料本には、この水路が開削されるまで、水争いが繰りひろげられたとあります。悲願の水路開削だったのです。

 音羽川の水は、隣接する村々は農業用水として利用していませんが、全量高野川へ落ちています。その水をどうやって蓼倉川へ引き込んだのかというのが最初の疑問です。この疑問は、京都市建設局の方からの情報で解決しました。

 音羽川から直接水を引いたのではなく、一旦高野川に落ちた水を合流点から約30m下流で堰止めて取水口を作り取水した事が解りました。

<蓼倉川の取水方法>

 つまり、高野川に落ちた音羽川の水量を理論上取水するという事で、実際には高野川から取水したのでした。

 水争いを繰りひろげている中で、他の村々の同意を得て“蓼倉川”を開削出来た訳は、この取水口よりも下流で農業用水を取水する村が無かったからです。

 鴨川高野川の川筋の村々の中で、下鴨村は最下流に位置しているのです。

旧下鴨村地図

 さて、取水口は解りましたが、何処を流れていたのでしょうか。その謎解きに大変心強い協力者に相談に乗って頂きました。立命館大学大学院で地理学を研究されている飯塚氏です。大正11年の都市計画図に記された当時の水路を辿る作業で、恐らくこのルートが蓼倉川ではないかという所まで辿り着きました。

 琵琶湖疏水分線も整備済みの大正11年の都市計画図ですので、水路が途切れる箇所もあり、枝分かれするルート候補を示しました。赤線が既に水路でない部分。

<“想定蓼倉川” 水路部分と道路に繋がる部分を繋ぐルート>

川筋想定図

赤線=大正11年に既に水路が示されていない区間

<出典:京都大学図書館蔵>

(大正11年測量の京都市都市計画図3000分の1の地図から水路をデータ化)

 

※PDFで見る(PDF:1,790KB)

 ここまで詰めた段階で、水路開削碑説明板完成式が7月26日に開催されました。その完成式を拝見しに出向きましたところ、更にルート確定を求められることとなりました。その完成式の様子をご紹介します。

“蓼倉川”開削記念碑 説明板完成式典にお邪魔しました

下鴨地区の心意気 地元愛の結晶

 7月26日(土)下鴨小学校に設置されている“蓼倉川”開削記念碑の説明板が完成し、関係者にお披露目されました。

<下鴨小学校正門>

 完成式では、司会進行役の椎村氏が開会の辞を述べられ、下鴨地区の地域の結束の強さを誇りに思うなどと語られました。

<椎村氏の開会の辞>

 続いて、説明板の除幕が執り行われました。除幕は、発起人から代表の勝矢氏、下鴨小学校校長の園部氏、地元重鎮の藤原氏、下鴨小学校卒業生で市会議員の村山氏の4名が、椎村氏の「3、2、1」の合図で勢いよくお披露目です。

<除幕者の紹介>

<除幕準備完了>

<「3、2、1」>

<無事除幕完了>

 続いて、説明板を作る会会長の勝矢氏の挨拶です。ご自分は、下鴨地区の住人ではないけれど、その碑の存在が気になっていて、どうにかしてその碑の存在を皆さんにも知って欲しい思いから、地元住民の方に呼びかけて今回の説明板の設置に至った事など、これまで経過の説明を交えての挨拶となりました。

<勝矢氏の挨拶>

 続いて、下鴨小学校校長の園部氏の挨拶です。校長先生も、碑の存在は御存知でしたが、その内容は御存知なかった事、児童に何の碑か尋ねられても答えられなかった事を語られました。また、地元の歴史に児童が興味を持ち調べるきっかけになればと、児童の学習の一助となることに期待が寄せられました。

<園部校長先生の挨拶>

 続いて、地元の重鎮で下鴨神社責任総代の藤原氏の地元代表挨拶です。藤原氏の父親の代もおじいさんの代も代々農業を営んでおられたそうで、農業に関わる歴史が後世に語り継がれる事を嬉しく思うと語られました。藤原氏のおじいさんの代というとまさしく、この蓼倉川の恩恵を受けられた時代かと思います。もしかしたら、開削に関わっておられたかも知れません。

<藤原氏の挨拶>

 予定の時間より少々早く進行したため、村山氏に一言と司会の椎村氏が水を向けられました。最初は、遠慮されていた村山氏でしたが、そこは市会議員さんです、マイクの前にお立ちになりました。

 御自身が下鴨小学校の卒業生という事で、在校中のエピソードが披露されました。「この碑の下には、小学生の頃クラスで飼っていた金魚を埋めました。死んでしまい、どこかに埋めてあげたいという事で、墓石に見えたこの碑の下に埋めてあげました。何の石か解っていなかったので・・・。今では肥やしとなっている事でしょう。」と思い出が語られました。

<村山氏の挨拶>

 閉会の辞で椎村氏は、「下鴨地区が昔から一丸となって結束し、物事に取り組む姿勢があります。良い事、も悪い事?いや悪い事はいけませんが、これからも結束して物事に取り組んでいきましょう。」と結ばれました。

 私も蓼倉川が当時何処を流れていたかを調べる宿題を頂いております。おぼろげながらその流れに近づきつつありますが、現在ではその流れは住宅地にのみ込まれ、僅かに道路がその片鱗を見せるのみです。

 立命館大学大学院の飯塚氏の協力を得ながら、もう少し精度を上げて追跡してみたいと思います。

<説明板>

 この完成式の勝矢氏の挨拶の中で、京都土木事務所のYさんに蓼倉川が何処を流れているのか調査依頼している事、この辺だろうという所まで絞り込まれている事が紹介され、更に「今年度中には確定してくれる事でしょう」と更なる精度アップが要求されました。

 再度、立命館大学の飯塚氏に協力を仰ぎ、大正12年当時に既に水路が繋がらない部分について、「琵琶湖疏水分線との関係」「不自然な流れのルートを排除」1つのルートに絞り込みました。更に当時の地籍図を重ね合わせて、土地の用途からそのルートが妥当である裏付けをし、ルートが確定しました。

<確定した“蓼倉川”流路 大正11年都市計画図から>

<出典:京都大学図書館蔵>

※PDFで見る(PDF:1,820KB)

<確定した“蓼倉川”流路 現在の地図に重ねる>

<出典:【基図:国土地理院基盤地図情報(2014年7月現在)】>

※PDFで見る(PDF:615KB)

 こうして、水か繋いでくれた人の縁が、今は存在すら忘れられかけていた“蓼倉川”の流れを繋ぎました。これで確定となった瞬間、飯塚氏から「実に面白い」と握った右手の親指を突き上げるゼスチャーが出ました。

 私も「good job」と応え、お互いに何かスッキリしなかったものが一気に流れた様な達成感を感じる事ができました。

 これで勝矢氏からの依頼は完了「ミッションコンプリート」です。今回の経験から、色んな目線の人が集まってディスカッションする事により、沢山のヒントが生まれ、見えなかったものが見えてくる事を再確認しました。

 地域の方からの依頼を、人のネットワークで実現する事が出来ました。小さな地域協働活動が出来たかなと思います。次回は、これを現実に地域に還元すべく、作成した詳細な地図(京都府・市町村共同 地理情報システム<GIS>)と現地の写真を交えて、今でも道路として歩ける“蓼倉川”水路跡をご紹介したいと思います。

 

平成26年8月28日 (京都土木事務所Y)

 

 第166号 水が繋ぐ人の縁シリーズ第5弾

人の縁が明治期に存在した“蓼倉川”を繋ぎました その2 蓼倉川を歩こう

 水が繋ぐ人の縁シリーズ第4弾では、“蓼倉川”の流路が何処を流れていたかを確定する過程をご紹介しました。今回はより詳細にその流路を辿ってご紹介したいと思います。宅地開発等により大正11年の水路跡とは完全に一致しませんが、おおよそこの辺りを流れていたであろう付近の道路を辿ります。

 京都府ホームページで公開しております地図情報(京都府・市町村共同 統合型地理情報システム<GIS>を覗きながら追いかけていきます。上流の起点(取水口)から5つの区間に分けて詳細をご紹介します。

 注:大正11年の地図は京都市都市計画図(京都大学図書館蔵)

<“蓼倉川”最上流部取水口から 第1区間>

<大正11年>

 取水口付近から見ていきます。取水口部分は現在マンションが建ち、住宅が建ち並ぶ場所に至るまでの敷地は某協会の施設があり、立ち入る事は出来ません。高野川から西へ斜めに流れるその区域を過ぎると、住宅街のちょうど始まりから5軒程のお宅の前に自然石で積まれた水路が現れます。玄関口には小さな橋が設けられていますが、水は流れていません。

 これは“蓼倉川”の遺構かもしれません。俄然信憑性が高まります。その先は水路の幅も狭まり、暗渠となり真っ直ぐ下って次の住宅街のブロックで方向を変えて行きます。道路側溝として利用されているようです。

<“蓼倉川”の遺構らしき水路を見つけました 第1区間>

<遺構と思われる水路 第1区間>

 住宅街に突き当たってから松ヶ崎浄水場の敷地まではその存在があった事を窺い知る事は出来ません。

<“蓼倉川” 第2区間>

<大正11年>

 松ヶ崎浄水場の敷地を過ぎると、疏水分線の高野川から1つめの橋の所へ続きます。そのタッチ橋にタッチした所から南に現在の道路沿いを進みます。そして、北大路通りへ辿り着きます。北大路通りに出る前に少し南北にゆるくZ字状に流れを振って、また道路沿いに進みます。

<“蓼倉川” 第3区間>

<大正11年>

 現在の現地の様子を見てみると、一部ガソリンスタンドをかすめていますが、道路側溝などの雨水排水の暗渠の存在を示すマンホールが確認できます。

<道路沿いに進む水路 “蓼倉川”第3区間>

 北大路通りを渡ると一筋目を西へ更に一筋目を南へ南下していきます。しばらくすると再度西へ進路を変え、一筋目を南下して細い路地へと入って行きます。

 蓼倉川は当時の農地の境界線上を流れていた様ですので、農地の地権者が宅地として手放された際には、その用水路に沿って所有権が移転し、住宅もその境界線に沿って立ち並んでいる様です。

<“蓼倉川” 第4区間>

<大正11年>

 比較的広めの道路が続きますが、道路には側溝が無く、暗渠で雨水排水の水路が設置されている様です。“蓼倉川”の旧流路沿いに進んで行くと段々とその道幅が狭まっていきます。いわゆる路地裏的な道へと変化していきました。

<住宅が建て込んだ路地へと進む“蓼倉川”旧流路 第4区間>

<“蓼倉川”第4区間 道路幅が比較的広い部分>

<“蓼倉川”第4区間 道路幅が比較的狭い部分>

 そして、最下流泉川との合流点までの第5区間です。

 この区間には、軽自動車も通り抜け出来ない箇所が一箇所あります。蓼倉川の元の水路幅に最も近い箇所と思われます。この狭い場所を抜けると少し道路幅が広がります。そこから真っ直ぐ南下すると、下鴨中学校の北門に突き当たります。

 少し西斜めに進んで、同校のグラウンドを囲うブロック塀突き当たり、塀沿いに西に進むと、下鴨神社の塀に突き当たります。この下鴨神社の塀に沿って泉川が流れています。ここで泉川と合流しました。終点です。

 暗渠になる前に下鴨中学へ通っておられた方の証言によると、同校の北門付近の道路は当時現在の半分程で、“どぶ川”の様な水路が流れてたそうです。それが“蓼倉川”の名残だったようです。

 大正11年の都市計画図では、泉川との合流点は真西に進むのではなく、斜めに南下して、現在の下鴨中学校の敷地内を通り、泉川のもう少し下流で合流しています。

<“蓼倉川” 第5区間>

<大正11年>

<終点に向かう“蓼倉川” 第5区間>

<この先が最も狭い箇所>

<ここは自動車は通り抜け出来ません>

<下鴨中学校北門>

<下鴨中学校に沿って南下>

<突き当たりを西へ>

<“終点”西の突き当たりに下鴨神社の塀>

<泉川の流れを確認しよう>

<泉川の流れを確認しました>

 千年の都京都は、何処を掘っても遺跡が出て来るといわれるのは、主に洛中と呼ばれた平安京の広大な敷地の遺跡です。それ以前の遺跡は周辺の山に分布していますので、遺跡を身近に感じる事はあまり無いでしょう。

 明治時代の先人の苦労の末開削された水路の跡が、普段何気なく歩いている道路の下に眠っているかもしれないのです。それを知ってその道を歩く事によってその歴史を伝える1つのツールとなればと考えています。

 住宅密集地ですので、大勢で騒がしく歩くのは遠慮して頂きたいと思いますが、小学生が少人数でその道を辿る事で、地域の子供達学習の一助として頂ければ幸いです。

 目に見えている歴史的構造物でも、あまり気にせず生活している時代です。今回の蓼倉川追跡で、目に見えない地域の歴史も後世に引き継ぐ事の大切さを改めて感じました。

 

平成26年8月28日 (京都土木事務所Y)

 

 第167号 鴨川 花の回廊整備から15年その変化は

先人の想い込めた記念碑と共に

 鴨川の下流域の整備も進み、続々と竣工していますが、今回は今から15年前の平成11年6月に全体が竣工した“鴨川 花の回廊”にスポットを当ててご紹介したいと思います。

<花の回廊完成記念パンフレット 表紙・裏表紙>

 この事業は、京阪電車地下化に伴う七条大橋から三条大橋にかけての河川改修工事に併せて、鴨川東岸に様々な樹木を植栽し緑豊かで花を楽しめる空間を創出する事を目的に整備されました。

 整備期間は七条側から平成4に着手し、約8年の整備期間を経て全体が完成しました。整備当時のパンフレットから「鴨川東岸の緑について」という解説がありますので、ご紹介したいと思います。

「鴨川東岸の緑について」

 現在(平成6年当時)、目にしている鴨川東岸の緑は、京阪電車と鴨川の双方からの目隠しや防音のために設けられたものです。京都らしい風景になる木というより、とにかく早く成長し良く繁る樹木が多く植えられており、今回、街の風景の中心となれるよう再整備します。

 これらの樹木は電車の運行に支障のないように枝が切られたり、木が美しく育つための手入れがされてこなかったため、樹木のかたちが乱れていたり樹勢に乏しい木が多くあり、新しい都市機能として歩道が確保された現在となっては、東岸からみる鴨川の景観を阻害するものとなっています。

 整備にあたっては、健康木は出来るだけ残す努力をし、移植できるものは鴨川全体の緑化に活用しながら、新しく京都らしい樹木を植えます。また、西岸からの景観にも配慮し、鴨東線を通行する車両等の目かくしとして中低木による緑の垣根をつくります。

 これらの樹木を育てる事により、美しい緑を豊かにし、永く京都の「街の財産」となるよう育てていきたいと考えています。

 京阪電車がまだ地上を走っていた昭和61年の写真をみてみると、“もりもり”と繁った樹木が壁になって京阪電車を覆い隠しています。大きな桜も花を咲かせていますが、大きく鴨川に枝を伸ばしていますので、かなりの老木の様です。

 「健康な樹木を残して」とありますので、この老木の桜は世代交代をしたのではないでしょうか。

<三条大橋下流 整備前>

<四条大橋下流 整備前>

<松原橋から上流 整備前>

<団栗橋下流から 整備前>

 整備が進む下流域でも同様ですが、整備から数年は樹木も小さく“スカスカ”感がありますが、次第に樹木は大きく育ち、緑豊かな空間が生まれます。すると、前々から目の前の風景があったと思ってしまう事はありませんか。

<四条大橋下流 整備直後>

<団栗橋上流 整備直後>

 「鴨川東岸の緑について」を読んでから、当たり前の風景となっている“花の回廊”を眺めてみるとどうでしょうか。先人の想いを見事に果たしていると思いませんか。

 鴨川の西岸から眺める花の回廊は今や都市空間の景観をなしており、京都を代表する河川空間の一つとなっています。

<三条大橋から下流 現在>

<三条大橋下流 現在>

<四条大橋下流 現在>

<三条大橋下流 現在>

 この整備の完成を記念して一般募集された「俳句・短歌」のうち、特選、入選の句碑が花の回廊に設置されている事を皆さんは御存知でしょうか。足早にそして自転車で通り過ぎる花の回廊の足元にその碑は佇んでいます。

 今回は、鴨川に込められた俳句・短歌をご紹介したいと思います。ご自分の詠まれた俳句や短歌が、鴨川をバックに後世にかたちとして残るという副賞は、どんなにお喜び頂けたかと想像します。

<花の回廊完成記念碑 メインの石碑>

<三条大橋東詰めの記念碑>

 それでは、特選の俳句・短歌から。この特選作品は、先にご紹介しました「鴨川東岸の緑について」の想い込がこもった、三条大橋東詰めに設置されている「鴨川 花の回廊 京都府」の記念碑の両脇を飾っています。

 俳句や短歌には、サラリーマン川柳くらいしか深く理解出来ない私ですが、選者の評の助けを借りて、これまで撮りためた写真からその情景に近いと思う写真を選んで「花の回廊俳句・短歌」にイメージ写真を添えてみたいと思います。

特選俳句 かもがわに どこからきたの ゆりかもめ

選者の評

 幼な子の素直な問いかけがとてもやさしく、自然と子供の触れ合いが微笑ましい

<俳句 特選>

◆イメージ写真

<どこから来たのユリカモメ>

<夏はカムチャッカ在住冬は日本へ 京へは琵琶湖から>

特選短歌 我が心 きよめ流るる 鴨川は 優しき母の まなざしに似て

選者の評

 比喩がやさしく、心を打つ情緒がある。鴨川の悠久の流れが京都の歴史を母のように包み込む様子がよく歌われている。

<短歌 特選>

 この短歌からは、大きく真っ直ぐに流れる街中でも上流の様子と、繁華街の四条大橋下流辺りの川に下りて、抱かれているようなイメージの写真を選んでみました。

<出雲路橋から上流を望む>

<団栗橋下流 川の中から上流を望む>

 続いて入選作品です。

 三条大橋と四条大橋の間に設置されているのは短歌です。

入選短歌 かめいしを みんなでとんだ ふゆのあさ はくいきしろく やままでしろい

選者の評

 子供らしさにあふれ、愛らしい元気な子供たちの姿が思い浮かび、楽しいイメージを得た

<三条大橋・四条大橋間>

 この短歌で浮かんだのは、子供達がカメの飛び石で楽しく遊ぶ様子と、冬の朝にうっすら雪化粧した鴨川と、雪を冠した北山をバックに並ぶカメの飛び石の

写真です。

◆イメージ写真

<出町の飛び石 カメ>

<荒神橋上流の飛び石 カメ>

 団栗橋東詰めに設置されているのは俳句です。

俳句 鴨川の 水べり刻む 青春譜

選者の評

 青春時代を京都ですごした人たちにとっての鴨川が詠まれており、若い世代にも訴えるものがある。

<団栗橋東詰め>

 「青春時代」というキーワードで、浮かんだのは鴨川真発見記を始める前に早朝の鴨川で出会った若者達の事です。鴨川である大学のサークルの引き継ぎ式が行われていました。

 2回生が高水敷に整列し、1回生が川の中に整列して引き継ぎ式が始まりました。3回生が荷物の番人約をして、4回生が橋の上から見守ります。最後は2回生も川に入り水の掛け合いで終了しました。また別の大学のサークルのレクリエーションの様子も浮かんできました。

<サークルの引き継ぎ式>

<サークルのレクリエーション>

 松原橋の東詰めに設置されているのは短歌です。

短歌 身障の 妻の手とりて 川小径 ゆりかもめ舞う 空と川面に

選者の評

 生活感と、それを救う自然がある。人をいたわる優しい気持ちがユリカモメのように読者の心にも舞い上がる。

<松原橋東詰め>

 ユリカモメが空と川面に舞う様子ということで、このご夫婦もご覧になったかも知れない光景を選んでみました。

思いっきり真上を向いて、雲をバックに天高く旋回するユリカモメの群れの写真と水面近くを舞うユリカモメの写真を選びました。

◆イメージ写真

<高く舞うユリカモメの影>

<川面を舞うユリカモメ>

 松原橋と五条大橋の間に設置されているのは、俳句です。

俳句 鴨川に立ちて 比叡の 峰あかり

選者の評

 京都ならではの美しい情景を象徴している

<松原橋・五条大橋間>

 “比叡山の峰あかり”という言葉に私の頭の中に浮かんだのは、早朝の日の出前、登り来る太陽の光がその稜線を浮かび上がらせる景色です。

 鴨川真発見記第115号でも紹介しましたが、鴨川に立って眺めるこの様子はどこか荘厳で比叡山信仰にも繋がる光景だと思いましたのでその写真を選ばせて頂きました。

 記念碑に使用されている石の形も、どこか山並みを彷彿させる形です。

<白く浮かび上がる稜線>

<赤く浮かび上がる稜線>

 五条大橋と正面橋の間に設置されているのは短歌です。

短歌 ひとひらの 花をみながら たたずめば 賀茂の河原に みやこどり舞ふ

選者の評

 作者の視点、人間の姿が浮かび上がり、その人と環境の関わりがうまくあらわされている。静と動のコントラストもよい。

<五条大橋・正面橋間>

 正面橋と七条大橋の間に設置されているのは俳句です。

俳句 凛とした 白さぎの様 京の川

選者の評

 鴨川に集う白さぎが京の比喩となっていて妙。歴史都市・京都の鴨川の気品が漂う。

<正面橋・七条大橋間>

 鴨川で年中見る事ができる“白いさぎ”は“コサギ”とダイサギです。

 凛とした姿を見せてくれますが、魚を捕獲する時は、俊敏な動きを見せます。普段は静かに過ごして“やる時はやる”といった感じです。

<凛と佇む コサギ>

<集う コサギ>

<凛と佇む ダイサギ>

<アオサギを挟んでコサギ・ダイサギ>

 今回は、整備開始から20年余り、全区間完成から15年が経過した“鴨川花の回廊整備とそこに設置された俳句・短歌の記念碑をご紹介しました。

 整備から15年から20年が経過した鴨川花の回廊の姿は、今や鴨川を代表する空間となりました。鴨川下流域の整備拠点も20年後には立派な景観を見せてくれることでしょう。鴨川の下流域の整備の様子もご紹介していきたいと思います。

 

平成26年8月28日 (京都土木事務所Y)

 

【目次に戻る】

 

 

お問い合わせ

建設交通部京都土木事務所

京都市左京区賀茂今井町10-4

ファックス:075-701-0104

kyodo-kikakusomu@pref.kyoto.lg.jp