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東京奠都後の復興施策として明治4年に行われた日本初の博覧会である「京都博覧会」やその翌年の「都をどり」などは有名ですが、同じ明治5年(1872年)に京都府が日本初の官営西洋式牧場「官立京都府牧畜場」を開設して乳牛や羊などで西洋式牧畜を始めたことはご存じですか?
京都の酪農の歴史は150年以上も続いています。その始まりについてご紹介します。
慶応3年(1867年)大政奉還後、江戸を東京に改称するとともに、天皇が東京に入り明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移転した、いわゆる「東京奠都」が行われました。東京奠都により公家や官吏たちが東上すると商人達も京都の街を離れ、京都市の人口は激減したとされています。経済的な退廃を見せる中、京都府の初代知事の長谷信篤(ながたにのぶあつ)が「京都府施政の大綱に関する建言書」(1870年)などにより復興施策を開始します。
京都府は奠都により下賜された10万両等を元手に明治4年(1871年)に「勧業場(かんぎょうば)」を設置し、ここを拠点に勧業政策を拡大します。
勧業場とは農商工の3業に新たな業種を誘致するなどして、立て直しを図るために作られた施設で、西陣織や清水焼の支援、ビール工場、製鉄、製紙、革製品の工場の創設などを次々に行ったそうです。
農業関連では明治2年(1869年)西陣織の為に桑苗を購入して府民に貸与し、明治4年(1871年)には二条城の北方で養蚕を行い、その方法を伝習する施設として「養蚕場」を開設、その後農業の施設も次々と建設していきます。
その勧業政策の一つに官立京都府牧畜場の設置があります。
明治5年(1872年)、今の神宮丸太町駅の東側あたりに「官立京都府牧畜場」が設置されます。
現在は少し場所は変わってしまっていますが、官立京都府牧畜場の石碑が荒神橋東詰め稲盛財団記念館の北西の角に設置されていますのでお近くに行かれた際はぜひ一度ご覧ください。
https://goo.gl/maps/Dv6UoQ9gAzrNk8M27(外部リンク)(グーグルマップ)
官立京都府牧畜場ではアメリカから牛羊を購入し、ドイツ人農学師ジョンソンを雇い入れて、牛豚羊の飼育およびその加工を行い、販売するとともに、農牧法の講習を行ったことが記録に残っています。
慶応3年(1867年)大政奉還から5年後の明治2年、まだ電気もない時代、明治9年(1876年)の廃刀令よりも前に京都府は全国の都道府県に先駆けて近代酪農を始めました。
官立京都府牧畜場は地方公共団体が作った牧場としては日本第1号と言われています。
初代の講師は農学師ジョンソンという方で、カリフォルニア州サンフランシスコから家畜に付き添って来日し、そのまま講師を務めたとのことです。
その翌年にはアメリカ人のJ.A.ウイードが来日します。この方が、現在の京丹波町の須知高校の前身である京都府立牧畜学校の設立時の講師となったとされいています。
官立京都府牧畜場では、当初、乳牛34頭、ヒツジ19頭を輸入、乳牛はデボン種が輸入されたと記録されています。
現在、デボン種は肉用牛として有名ですが、当時デボン種と呼ばれているものは、もっと薄い茶色をした酪肉兼用種の「サウスデボン種」ではないかと考えています。
京都府農牧学校跡の石碑が須知高校そば、国道9号線沿いにありますので、お近くに行かれた際はぜひ一度ご覧ください。
https://goo.gl/maps/w9GwX8yT1d8aumr68(外部リンク)(グーグルマップ)
明治12年(1879年)に官立京都府牧畜場から京都牧畜場へと変更され、明治34年(1901年)に日清戦争・日露戦争による大不況のあおりを受けて、ここで一旦京都府所有の牧場は閉鎖してしまいますが、牧場そのものは民間に払い下げられます。
京都府は、閉鎖から5年後の明治39年(1906年)、府議会の議決を経て現在の京丹波町に種畜場を設置し乳牛及び和牛の繁殖・譲渡・試験研究を再開します。
昭和10年(1935年)に綾部市の現在の位置に種羊場を設置し、その後統廃合を行って現在の畜産センターとなりました。
京都府は令和4年2月現在でも約4千頭の乳牛が飼育されています。歴史の深い京都の牛乳。ぜひ一度ご賞味ください。
倉知典弘,京都における勧業政策の展開,京都大学生涯教育学・図書館情報学研究,2008,7:P93-P106
ふるさとの畜産,京都府,1968
関広尚世,「京都牧畜場」銘ガラス瓶について,京都市埋蔵文化財研究所研究紀要,2017,11:P89-P95
京都府畜産会編.京都府畜産のあゆみ,1973
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