中丹広域振興局
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「漆」の英訳は「Japan」といいます。ジャパン、つまり日本のこと。深く落ち着きのある暖かい光沢は、日本の代表的な美しさとして世界に認められているのです。漆の原料となるのは、ウルシの木。ウルシ科の落葉広葉樹で、雌雄異株、樹高はおよそ10メートルになります。葉っぱは大きく丸みがあります。漆の液が採れるのはこの「ウルシ」だけで、よく山で見かけるヤマウルシやヌルデは、一見ウルシによく似ていますが、漆液は採取できません。
初夏から初秋にかけて樹液を採取し(この作業を「漆掻き」といいます)、漆液を精製したものを、日本独特の塗料として彫刻や木工品に利用しています。
漆を塗布したものは熱や酸などにも強く、縄文後期には既に利用されていました。福井県三方町の鳥浜貝塚や青森県青森市の三内丸山遺跡などからは、石器や土器などと一緒に、赤色の漆の櫛や黒色の漆を塗った土器などが出土しています。
漆は木や竹、土器、金属、さらに布やガラス、紙、皮などさまざまなものに塗ることができ、また、接着剤としても使えるため、古くからいろいろと生活の中で大切に使われてきたのです。
そして、近年、無公害の安全性や本物の美しさ、やすらぎ、そして環境にやさしい「漆」が、今再び注目されてきています。
明治40年に発行された「実用漆工術(じつようしつこうじゅつ)」という本に、日本全国の漆の産地30カ所が記されていますが、その一番目に書かれているのが「丹波」です。丹波とは、今の京都府と兵庫県にまたがっていましたが、漆で丹波といえば、現在の福知山市の西北部一帯の地域のことを指してきました。この「丹波漆」の歴史は、奈良時代の初期、すなわち今から約1300年前も昔に確認できます。そして、明治期には500人もの漆を掻き取る人たちがいたそうです。
かつて全国で30を数えた漆の産地は、次々と姿を消して、現在も残っているのはほんのわずかしかありません。主な原因は安い中国産の漆が輸入されるようになり、漆掻きでは生計が立てられなくなったことがあげられます。また、丹波地方では地元に漆器産業がなかったこともあり、明治時代以降、丹波漆は急速に衰えてしまいました。現在、国内産漆は国内消費量のわずか5%となっており、中国産の漆が90%以上を占めています。また、中国産漆の価格は国内産漆のおよそ6分の1となっています。
しかし、輸入漆は安いものの、良い漆器を作るためには高品質な本漆が欠かせないため、小規模ながら漆の生産は続けられてきました。なかでも、漆掻きの技術を伝承されてきた丹波漆生産組合(昭和23年結成)の活動により、「丹波漆」の伝統は現在まで受け継がれてきました。市場においても、良質な「丹波漆」は国産の漆の中でも高値で取引されています。
こうした「丹波漆」の技術を残すため、京都府では、優れた技術を伝承者である衣川光治氏の協力の下、丹波漆の栽培技術指針を作成しています(昭和63年作成)。また、府農林水産技術センター農林センター緑化センターでは、丹波漆の優良品種生産のため、挿し木による漆の栽培方法について研究しています。
さらに、福知山市夜久野町では地域の伝統産業をもっと多くの人に知ってもらおうと平成13年に「やくの木と漆の館」が開設されました。ここでは、漆に関する展示や漆器の販売の他、漆塗り体験が実施できる施設となっています。
漆は関わるほどに深みを増していく、とても不思議なものです。それは漆というものが、今流行りの天然素材といったことだけではなく、脈々と受け継がれてきた歴史と伝統を感じさせてくれるからではないでしょうか。ここで、その技術を守り、伝えてこられた丹波漆の真の伝承者、故衣川光治氏のことばをご紹介したいと思います。
まことの理を知らないと、漆の木はかぶれるから困るとか、漆掻きは漆の木を傷める殺生な仕事であるとか、間違った見解が幅をきかせます。かりに漆を掻かなければその木は時が経てば朽ちてこの世から姿を消します。ところが漆を掻けば漆の木は姿を変えて永遠に立派に生き残るのであります。
漆を掻くということは、人が漆の木に生きるために奮斗努力を求めることであります。カンナ(注1)が甘ければ漆の木はいつまでも笑っているし、きついと赤い涙を流す。笑われては困るし、泣かれては厄介である。ほどほどに気張らせて人と木の協力の結晶を自然から戴くことで、生漆こそ生きたまことの芸術品であると言えます。
(「丹波漆(漆の掻き方)」あとがきより)
※注1:漆を掻く時に木の幹に溝を掘る道具
出典
「やくの木と漆の館vol.1」
「丹波漆の今昔(丹波漆生産組合)」
「栽培技術指針・丹波漆(漆の掻き方)(京都府)」
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