けいはんな万博イベント「古代都飯プロジェクト」Keihanna Expo Event "Ancient City Food Project"
(「けいはんな万博2025」予定イベント紹介ページ)
内容 Contents
(PDF:714KB)
飛鳥・奈良・平安時代の古代食(いわば「平安京飯(京)・難波宮飯(阪)・平城京飯(奈)」)の研究、それらの要素を活かした新たな食品開発を通じて、新しい食品産業の創造を目指します。We aim to create a new food industry through research into ancient foods from the Asuka, Nara, and Heian periods (such as "Heian-kyo rice (Kyoto), Naniwa-miya rice (Osaka), and Heijo-kyo rice (Nagasaki)") and the development of new foods that utilize these elements.
(説明資料)(PDF:267KB)
- 研究 Research
- 新しい食品開発の推進Promotion of new food development
- 「けいはんな万博2025」での発表(コンペ)Presentation (competition) at "Keihanna Expo 2025"
会場 Avenue
(調整中)
会期 Dates
(調整中)
実施主体 Organizer
(相談中企業様)
古代食が食べられるレストラン/カフェの HUMANITIES CAFÉ fudoki」(埼玉県さいたま市)に行かれた、京都府立大学大学院食の文化学位プログラムの小川さんからお聞きしたお話です。
- 古代の食に関して基本となる考え方は、中国の影響を受けていること、いたってシンプルな調理法が使われていた。
- 藤原京や平城京の遺構から、寄生虫の卵の化石が見つかっており、野菜を加熱せず食べていたり、魚を生か半生でよく食していたりしたことが解明されている。
- 豚に発生する寄生虫である有鉤条虫の化石も見つかっているため、豚肉を、かつ生か半生で食べていたとも考えられる。
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推古天皇の即位(592年)、聖徳太子の摂政登用(593年)、中臣鎌足・中大兄皇子による曽我氏打倒(645年)を皮切りに、「大王(おおきみ)の国」から「律令国家」へと変遷した飛鳥・奈良・平安時代にかけて、「けいはんな」周辺で度重なる遷都(外部リンク)が行われました。
お米は、蒸して食べる「強飯(こわいい)」、現在のように炊いて食べる「固がゆ」、現在のおかゆのような老人・子ども・病人が食べる「水粥」がありました。調味料は、酒、塩、酢、醤などたくさんありました。また、仏教の影響で肉が禁止されることがしばしばありました(干し肉は食べられていました)が、「茶粥」「茶飯」など寺で発達した料理(外部リンク)もあります。こうした当時の料理は、身分の違いで大きく異なっています(外部リンク)。なお、Cookpadで当時のレシピが紹介(外部リンク)されています。
貴族の食事
1回の食事の品数が多く、成人病になる人も多かったそう。
- 回数:1日2食(天皇の場合、10時頃と16時頃)
- 食器(外部リンク):大陸文化を取り入れた金属製の食器(銀は毒で変色し見破る効果がある)、箸と木製スプーンを使用
- 食事:古代米、鯛・アワビ・鮎・フナ・エビ・イワシなどの魚介類(干したもの、なれ鮨)、牛乳(その飲用は奈良時代に始まりました)、牛乳を長時間煮詰めたチーズ「蘇」、牛乳ベースの鍋物「飛鳥鍋」、豆、吸い物、クリなどの木の実、みかんなどの果物など。
下級役人の食事
「大膳職(だいぜんしき)」と呼ばれる給食センターから支給された食事を食べていました。
- 回数:1日2食(間食あり)
- 食器:土器
- 食事:玄米、いわしの煮つけ、かぶの酢の物、きゅうりの塩漬け、野菜の味噌汁、濁り酒(酒粕をお湯でといだもの)、塩(調味料)
庶民の食事
弥生時代からほとんど進化が見られない食事で、玄米に塩を振って食べ、付け合わせは海草の味噌汁とゆでた青菜や山菜くらいの、一汁一菜が基本でした(約400キロカロリー)。栄養失調で倒れる人も多かったそうです。
現在と違う点(外部リンク)は次のとおりです。
- 味:現在の京都料理の基本、昆布出汁はなく(北海道でとれた昆布が関西に入るのは江戸時代、廻船業が発達してから)、あまりおいしくなかったのではないでしょうか。料理に味がついていないため、味付けは自分で行っていました。
- 見た目:彩りよく盛りつけるという考えがなく、当時の盛り付けは、1つの食材だけを盛り上げる高盛(たかもり)でした。現代で言うならば、神社の神饌(おそなえ)が、イメージに近そうです。
- 食べ方:当時の食事作法では、食器を持たなかったので、匙(かい)というスプーンと箸で食べていました。
主食、主菜、副菜、デザートなど豪華な食事です。宴会の食事は“大饗料理(だいきょうりょうり)”と呼ばれます。平安時代における死因の半分は「結核」ですが、貴族における病死の2割は、「脚気」(かっけ)でした。主な原因として、庶民の食事は1日1~2回だったのに対し、貴族は途中から1日3回に増え、味付けも自分の好みで偏っていた上、労働をしないため、塩分が高い食材に、糖度の高い酒を飲んでいたことから、「糖尿病」などの生活習慣病になりやすかったようです。
- 主食
-米:ふっくらとした白米ではなく、うるち米を甑(こしき)で蒸した「強飯」(こわいい)と呼ばれる少し硬めの米。強飯は、塗り椀に円柱状(または四角)にてんこ盛りに盛られ、その上からお箸を立てて刺し、より立体的かつ豪華に見える「高盛り」という現在の仏様の影膳で、たくさん食べてもらうことがもてなしでした。
- 主菜
--野菜
--魚介類:貴族の暮らす京都は、海から遠かったことから、川から獲れる淡水魚などで、腐らないよう干物か塩漬けになっていました。
--肉類:近くの山で獲ることができるヤマドリやハト・スズメなどの鳥類、クマやイノシシなどの獣類(平安時代中期の漢和辞書「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)に記載)
- デザート
--木菓子:梨、麹、なつめなどの果実類
--唐菓子:もち米の粉を練って焼いた「ひちら」という煎餅、肉桂皮の粉末を付けた「てんせい」という餅など穀物由来の菓子で、油で揚げたもの(砂糖はありません)
--乳製品:牛乳、「蘇」、「酪」(牛乳を濃縮して粥にした物)
--削り氷(かき氷):「甘葛」(ツタの樹液を煮詰めた蜜)というハチミツのような甘味料を、かき氷にかけて食べていました。平安時代のかき氷は、冬の間に自然の冷気によってできた氷の塊を、日の当たらない山麓の洞窟や掘った穴にすすきやワラビの穂などを敷き詰めて置き、その上から草を覆って、夏まで保存していました。この施設を「氷室」(ひむろ)と呼び、宮内省の主水司(宮中の飲料水や醤、氷室などを管理した役所)が管理したとされています。
- 調味料(現在:砂糖、塩、酢、醤油、味噌)
--四種器(ししゅのもの):酒、塩、酢、醤が各自の膳の上に置かれており、自分で好みの味付けをして食べていたようです。蒸す、焼く、煮る、茹でるといった調理法は確立していましたが、調味料を使った料理法は誕生していなかったのです。
--二種物:塩、酢(身分の低い者向け)
庶民の食事
貴族とは違ってとても質素で、基本的には、米粥と汁物、干物や野菜の和え物などが並ぶ「一汁三菜」であったとされています。食事の回数は朝と夕方の1日2回が基本でした。
- 主食
-麦・雑穀:当時の農作物の生産量は限られていたため、庶民の食卓に白米が上がることはめったになく、主食は「麦類」、アワ・キビなどの「雑穀」が中心で、腹持ちをよくするために、粥状にしてかさ増しして食べるなどの工夫をしていたそうです。
- 副食
--野菜・穀物:ウリやネギ、ごぼう、フキ、ナス、せりなど、野菜や穀物が多く、粕漬、酢漬けにして食べていました。また、遣唐使によって麺類が伝来し、麦を使った現在のうどんのような物が食べられていたと言われています。