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鴨川真発見記 平成26年1月

 第125号 新春特別 明治・大正・昭和・平成の鴨川

4つの年号を見つめた鴨川を振り返る(三条から五条まで)

 皆様、新年明けましておめでとうございます。

 平成26年第1号となる、鴨川真発見記第125号は、新春特別と題して現在と過去の鴨川周辺の様子をお届けします。

 鴨川真発見記では、昭和10年の大水害に関して「鴨川真発見記第91号」で市街地の上流域の様子を、「鴨川真発見記第113号」では昭和50年当時の様子をご紹介しています。

 今回は、京都府立総合資料館に残された古写真も交え、年号を遡ってその変遷をご紹介したいと思います。

 府立総合資料館に残された古写真には、正確な年や場所が明記されていませんが、撮影した写真家の生きた時代内での撮影とされています。中心となる写真は「黒川翠山」という写真家で明治15年から昭和19年までを京都に生きた方です。明治、大正、昭和という激動の時代を感じようではないですか。

 写真にキャプションはありませんので、私の想像と勝手な思い込みも含めて解説したいと思います。事実誤認があればお知らせ頂きますようお願いいたします。

三条大橋近辺

<三条大橋1(撮影:黒川翠山)>

<平成25年 変わらぬ佇まい>

<三条大橋2(撮影:黒川翠山)>

<平成25年 洒落た街灯に>

 この時代の写真を見ると、傘を差す人も目立ちます。しかしながら、その用途は多くの場合日よけのようです。今も変わらぬ三条大橋の擬宝珠が趣きのある姿です。橋の上に出来た影に太陽の日差しを感じます。木の高欄の温かみが少女の手に伝わっているのでしょうか。

<鴨川三条大橋3(撮影:黒川翠山)>

<平成25年 山並みは隠れました>

 橋の真ん中を自転車が走っています。着物姿で日本髪の女性と木製の高欄はすごく調和しているようですが、橋の右側に建っている洋館は少し違和感覚えます。文明開化と同時に新しい文化を積極的に取り入れたのも京都文化なのでしょう。100年の時を経て“京都らしさ”が話題に登っているようですが・・・。

<鴨川 三条大橋4(撮影:黒川翠山)>

<平成25年 この木は同じ木?>

 こちらの写真では、車が通っています。この頃には歩行者は端の方を歩いているようです。日本人に交通ルールが浸透したのは何時のことだったのでしょう。

<鴨川 三条大橋5(撮影:黒川翠山)> 

<平成25年 弥次喜多前で待ち合わせ>

 三条大橋の橋脚は、豊臣秀吉が造営した当時の石柱も残っているとも言われています。現在では、河床を深く堀下げたことから、石柱にコンクリートの下駄が履かせて継ぎ足してあります。

<鴨川 京阪三条駅ホーム(撮影:黒川翠山)> 

<平成25年 広がった川幅>

 当時、京阪電車の京都側の終点駅であった三条駅です。駅のホームに電車が止まっています。東山の山腹に寺社の屋根が見えています。

 それでは、昭和10年大水害時の三条大橋付近の様子を、京都土木事務所所蔵の記録写真でご紹介いたします。洪水が溢れている時の写真には表題に「出水当時」と、水が引いて災害の状況がわかる写真には「鴨川沿岸」とそれぞれ記載されています。

<出水当時 三条大橋>

<平成25年台風18号の翌日 斜写真> 

<同左 垂直写真>

 三条大橋が鴨川の東詰めで寸断されています。この水害では多くの橋が流出し、その瓦礫や流木が橋脚を直撃し次々と橋を破壊していきました。

<出水当時 三条大橋西詰に於ける自然発火による瓦斯燃焼>

<平成25年>

<出水当時 三条大橋(右岸下流より)>

<平成25年>

<出水当時 鴨川左岸より三条大橋を望む>

<平成25年>

 平成25年(去年)の9月の台風18号の増水時にも、濁流がうねりを見せながら下流へと激しく流れました。今回の水量は平成10年当時の水量よりも沢山の水が流れたそうです。河川改修の効果もあり、被害は最小限に抑えられました。

<出水当時 鴨川左岸三条通り下手より先斗町を望む>

<平成25年9月台風18号による出水時>

<鴨川沿岸 破壊せる三条大橋(左岸上流より)>

<平成25年 逆光ですが・・・

 手前の樹木は激流に耐えたのでしょうか。おそらくここも激流にさらされた事と思いますが・・・。この時流出した橋脚かどうかはハッキリしませんが、三条大橋の橋脚とよく似た石柱が「三条大橋西詰め」「京都府庁旧館中庭」「三条四条間右岸の川端通り歩道の傍」に保管されています。

<出水当時 京阪電鉄三条駅付近>

<平成25年 今は川端通り>

<鴨川沿岸 京阪電鉄三条駅付近>

(疏水左岸三条通り下手より)

 

<平成25年>

 疏水と鴨川の激流に挟まれた京阪三条駅も大変なダメージを受けました。

 

四条大橋近辺

 次に四条大橋の近辺の様子をみてみましょう。

 再び府立総合資料館所蔵の写真でご紹介します。

<四条の橋(旧1号書庫写真)明治7年>

<平成25年>

 四条大橋の右岸側を左岸側から橋を挟んで上流向きに撮影されたと思われます。橋のたもとの広いスペースには、床几がズラリと並んでいるようです。上流側にも橋を渡すように床の様なものが続きます。

<鴨川 四条大橋1(撮影:黒川翠山)>

<平成25年 菊水ビルの背後にビル>

 南座の西側には疏水が流れています。僅か30年程前までは現在の川端通りは疏水だったのです。もうすっかり忘れてしまっていませんか。そして地上を走る京阪電車。発車オーライの踏切には遮断機はありません。四条通りの東西に交通整理員が各一名配置され、その通行を制限しています。

 このアングルの写真を撮影するには、現在中華料理店である「東華菜館」ビルからしかありません。東華菜館様にご協力いただいて現在の様子を撮影させていただきました。併せて昭和10年の大水害のアングルも撮影させていただきました。ご協力ありがとうございました。

<鴨川 四条大橋2(撮影:黒川翠山)>

<平成25年 市電は市バスに>

 京阪電車と京都市電の路面電車が交差しています。共に現在では見ることの出来ない光景となりました。七条大橋とお揃いのデザインの四条大橋も現在では姿を変えています。

 昭和10年の大水害で大きなダメージを受けたこの橋は、現在の橋に架け替えられました。一方、七条大橋は今も健在で、平成25年に架橋100周年を迎えました。

<鴨川 四条大橋3(撮影:黒川翠山)

>

<平成25年 流れが穏やか>

 懐かしのボンネットバスに自動車、自転車、歩行者などなど、当時から賑わっていました。それにしても、鴨川の水の流れが速そうです。

<鴨川 四条大橋4(撮影:黒川翠山)>

<平成25年 東華菜館ビル>

 四条大橋を東から西方向を撮影した写真です。菊水のビルからの撮影でしょうか。四条大橋西詰め南側の東華菜館ビルはまだ建設されていません。その北向かいの小さな建物は、現在もそこに位置する交番でしょうか。お隣は飲食店のようで、傍の鴨川には舟が係留されているようです。

 このアングルも、現在「レストラン菊水」ビルの屋上からしか撮影出来ません。レストラン菊水様にもご協力をいただいて撮影させていただきました。ご協力ありがとうございました。

<鴨川五条~四条のあたり1(撮影:黒川翠山)>

<平成25年>

<鴨川五条~四条のあたり2(撮影:黒川翠山)>  

<平成25年>

 当時、鴨川とみそそぎ川は同じ高さにありました。区切りのための板や工作物で区切り、みそそぎ川の水を確保したようです。昭和10年の大水害の後、鴨川の川底を深く掘り下げたため、現在のみそそぎ川の仕組みができました。その仕組みは、「鴨川真発見記38号 みそそぎ川の水はどこから」を参照ください。

 床の下になびく洗濯物が生活感をにじみ出させます。「東華菜館」「菊水」「南座」の鴨川四条の三大建築も肩を並べています。

<鴨川 四条~三条のあたり1(撮影:黒川翠山)>

<平成25年>

 これは、水量の少ない季節の写真でしょうか。まるで寄り州の上に床が乗っているようです。時代が違うのでしょうか、床の下に流れは見受けられません。

<鴨川沿岸 京阪電鉄四条駅「プラットホーム」の破壊>

<平成25年>

 水害前の写真を見ると、木製の柱で幾重にも支えられているように見えた部分が、激流に洗われて崩壊してしまったようです。

<出水当時 四条大橋(東詰より)>

<平成25年>

 四条大橋は頑丈なコンクリート製の橋で、流木も受け止めましたが、受け止めたが故に流木が堰となり、行き場を失った鴨川の水が繁華街へと流れ込みました。

<出水当時 四条小橋付近>

<平成25年>

 繁華街のど真ん中“四条通”にも舟が浮かびました。ロープ伝いに避難する人の姿が映しだされています。

<出水当時 四条大橋東詰上手>

<平成25年>

 家の戸口に立つ人の胸元まで水が来ています。四条大橋で市街地に方向転換した鴨川の一部の水が大きなプールの様に水が溜まってしまいました。

<出水当時 四条大橋下の激流(東詰より)>

<平成25年>

 モノクロ写真なので、わかりにくいですが、平成25年台風18号時の写真のように、濃く茶色い激流がうねり、水しぶきを上げながら鴨川を駆け下りていったのでしょう。

<出水当時 四条大橋その1> 

<平成25年>

 四条大橋に引っかかった流木が、橋の上に引き上げられていきます。人力での作業はさぞかし困難だったことでしょう。

<出水当時 四条大橋その2>

<平成25年>

 作業する人も、命がけだったことでしょう。上半身を欄干から乗り出して流木を回収しようとする人がいます。流れに飲み込まれたら“ひとたまり”も無いでしょう。

<出水当時 四条大橋下の激流>

<平成25年>

<出水当時 四条大橋西詰> 

<平成25年>

 東華菜館の前にもあふれ出た水が激しく流れています。

<出水当時 四条通(四条大橋西)の氾濫>    

<平成25年>

 白い制服は警察官でしょうか、婦女子を気遣いながら水路と化した四条通を横断していきます。

<出水当時 四条通東北角>

<平成25年>

 今はドラッグストアとなりましたが、四条木屋町東北角のお店もどっぷりと浸水しています。

<出水当時 先斗町(四条通入口より北方を望む>

<平成25年>

 先斗町の通りにも水がなみなみと流れています。両側にお店がひしめきあって、水の逃げ道が少ないようです。

<鴨川沿岸 四条大橋(上手より下流を望む)> 

<平成25年>

 川沿いに設置された枕木線路も洗い出され、線路が浮き上がっています。現在は地下化され、この様な心配は無くなりました。

五条大橋付近

 最後に五条大橋付近を三条、四条と同様に振り返りましょう。

<五条板橋(撮影:鑑二)明治14年>

<平成25年>

<五条の橋1(撮影:黒川翠山)>

<平成25年 橋脚は減りました>

 この頃の鴨川の浅かったことがよく解ります。周囲の家の高さから推測すると、平屋の高さくらいしか無かったようです。高い建物が無く東山が見渡せます。

 その下の写真が翠山の写真ですが、明治14年よりも後から撮影されたものです。何だか時代が遡った様な印象を受けますが、この方が「牛若丸と弁慶」の出会いの場としての雰囲気は出ていますね。(実際の出会いの橋は現在の松原橋との説もありますが・・・)

<五条の橋2(撮影:黒川翠山)>

<平成25年 人力車、今はタクシーに>

 三条大橋と勘違いしそうですが、辺りの風景が全く違います。人力車が写っています。現在では観光地で観光客専門となっていますが、当時は生活の足として活躍していた事がうかがえます。

 それでは、昭和10年の大水害の様子です。

<出水当時 五条大橋(左岸より)>

<平成25年>

 五条大橋の被害は大変大きかったようで、両岸の一部しか残らなかったようです。橋脚も橋桁も跡形なく流されています。

<鴨川沿岸 流出せる五条大橋(右岸より)>

<平成25年 台風18号翌日>

 水が引くと直ぐに仮橋が架けられたようです。やはり橋は生活に欠かせない重要な施設です。

 京都市内にも近年に無い程の多数の災害の爪痕を残した台風18号が記憶に新しい中、4つの年号をまたいだ鴨川の中心部を、昭和10年の大水害時の記録とともに振り返りました。

 台風18号被災の災害復旧工事も本格的に始まりました。そんな中、街の様相をも変えてしまう水害の恐ろしさを再確認いただいて、防災意識を高めていただきたいと思います。

 

平成25年元旦 (京都土木事務所Y)

 

 第126号 「かもがわ」は「鴨川」?「賀茂川」?「加茂川」?

「かもがわ」の名前の由来、そして漢字は

 「“かもがわ”の名前の由来は?」「漢字で書くとどれが正しいの?」というお問い合わせもよくいただきます。これには諸説あるようなのですが、一般的にお答えしているのが下記の内容です。

鴨川の名前の由来

 鴨川の名前の由来にはいくつかの説がありますが、平安京造営の前から、そのほとりに住んでいた「賀茂氏」に由来しているという考え方が一般的です。賀茂氏の氏神をまつる上賀茂神社と出町付近の下鴨神社にちなんで高野川合流点より上流を「賀茂川」、下流を「鴨川」と書かれることが多いようです。
(京都府発行 小学生向け資料「わたしたちの鴨川」より)

<上賀茂神社前の石碑 「賀茂大社」>

<上賀茂神社の案内板 ようこそ、世界文化遺産・上賀茂神社へ>

<正式には「賀茂別雷神社」>

「かもがわ」の漢字表記について

 「かもがわ」は明治29年施行の旧河川法制定以降(昭和39年の新河川法制定に伴い廃止)京都府が管理する一級河川の区間を定め、「鴨川」と表記しました。従いまして、一級河川として指定した区間全てを「鴨川」としています。

 しかしながら、「鴨川」として管理する以前から、沿川や地域の住民の間では「鴨川」「賀茂川」「加茂川」と主に三種類の漢字が使用されてきたようです。地域名に見る「上賀茂地区」「下鴨地区」「西賀茂地区」や「加茂川中学校」「加茂街道」そして以前北大路橋上流に架かっていた「中加茂橋」などそれぞれの漢字が登場します。

 そんな中、一通のお便りと論文によるご提案をいただきました。2020年東京オリンピック開催も決まり、京都にも海外からのお客様を多く迎え入れる事もあり、「かもがわ」の漢字表記を「鴨川」に統一してはどうかというご提案です。

 この提案を京都土木事務所のホームページにて紹介して頂けないかというお申し出でした。鴨川に関心をお持ち頂くことは大変ありがたい事ですので、ここにご紹介させていただきます。ただ、「鴨川」に漢字表記を統一するという検討はしておりませんので、下記内容にて御本人にはお返事をお書きしました。

以下お返事の内容(お返事には写真は添付しておりません)

 丁寧なお便りと論文ありがとうございます。

 御指摘のとおり鴨川の漢字表記は複数存在しております。お書きいただいておりますとおり河川法上は「どこから」「どこまで」を「鴨川」と鳥のかも一文字をあてております。

<桂川合流点からの距離を100m毎に示す標識柱>

 しかしながら、古来より「鴨川」「賀茂川」「加茂川」と表音文字として概ね3つの漢字があてられていたようです。地元の方々に親しみを込めて呼ばれる「かもがわ」にはその川に対する思いも大きいとお聞きします。

<道路標示「加茂街道」>

<広域避難場所 「賀茂川右岸河川敷」>

 出町の高野川合流点より上流を「上賀茂神社」の「賀茂」、下流を「下鴨神社」の「鴨」を使って区別する場合や、「加茂」を使う場合と、そこに育った方々の慣れ親しんだ「漢字」の使い分けにつきましては、あえて間違いであるとか、漢字の使用について修正願うということはいたしておりません。

<賀茂川ウォークマップ>

 鴨川の河川区域内にも「かもがわ」の看板も設置しておりますが、一級河川鴨川(賀茂川)と表記させていただいております。また、管内図などにも鴨川(賀茂川)の並記もするなど、親しみを感じていただいている方々にも配慮させていただいております。

<鴨川を眺める面には「鴨川(賀茂川)」と表記>

<鴨川から眺める面には「かもがわ」と表記>

 先輩職員が、昭和33年に手元の資料等をまとめた「鴨川の変遷」という冊子があります。その中の「“鴨川”と“賀茂川(加茂川)”」に触れた文章がありますので、参考にコピーを添付させていただきます。

※鴨川の変遷(PDF:1,453KB)

 なお、河川法では一つの名称で記されている河川名を区間によって名称そのものも別にするというケースもあります。例えば桂川上流域では「上桂川」、中・下流では「保津川」、「大堰川」そして「桂川」といった具合です。

 河川も河川法上の呼び名ではなく、通称を使った方がその雰囲気や風情を感じることもあると思います。呼称や漢字を統一するという方法もあると思いますが、外国の方にも日本人は川への愛着や風情を大切にしている事を知っていただき、日本文化に触れていただく方法もあるのではないでしょうか。

 ご提案のあった事は、ホームページで紹介させていただきたいと思いますが、現時点で一般の方が表記に使用される漢字を統一するという検討は予定しておりません事ご理解頂きますようお願い申し上げます。

<京都土木事務所傍の北山大橋>

<北山大橋には「賀茂川」>

<北山大橋から一つ上流の上賀茂橋>

<上賀茂橋も「賀茂川」>

 鴨川に大きな関心を持っていただいている事には大変感謝しております。またお気づきの点がございましたら御意見をお寄せ頂きますようお願いいたします。

今後ともよろしくお願いいたします。(京都土木事務所)

以上がお返事の内容です。

 

 今回はこの回答でご容赦いただきたいと思います。「かもがわ」の漢字表記に関しましては、私の周りの方の中にも「出身中学」「在住地」「勤務先」などから「“かもがわ”の漢字はこれでなくちゃ」というお言葉をちょくちょく耳にします。

 海外からお越しのお客様には、発音は同じなので「kamo」の表記で親しんで頂ければと思います。

 なお、京都府では一般的に橋の親柱には「河川名」「橋名」が表記するようルールを決めています。しかし、京都市内の橋梁は京都府の管理ではなく「三条大橋」「四条大橋」「五条大橋」には親柱がありません。その替わりに橋の名板が設置されているケースもあります。橋の管理者にどの様な意図があるかはお聞きしておりませんが、そこが鴨川であることは「鴨川納涼床」を代表とする様々な関わりから周知のことと思います。

<三条大橋 表示なし>

<四条大橋 高欄改修時の碑のみ>

<五条大橋 表示なし>

 皆様の「愛着」や「こだわり」、これも「かもがわ」に関心が高い現れだと思います。この関心が無い状態「無関心」が「かもがわ」を美しく保つための大敵であると思います。

 今後とも「かもがわ」に関心をお持ち頂いて、みなさんで京都の顔「かもがわ」を守り育てていただきたいとお願い申し上げます。

 ちなみに、野鳥の「鴨」が多く飛来するから「鴨川」という説は、諸説の中には含まれておりませんので、そう思っておられた方には悪しからず。

 鴨といえば、昨年の暮れに「オナガガモ」を見ました。オスとメス、オスとオス2羽の組み合わせで“シンクロナイズドスイミング”のペア演技のように水中に頭を突っ込んで見せてくれる様子は何度かご紹介しましたが、今回は4羽でのシンクロです。

<さあ4羽で合わせましょう>

<おっと乱れた>

<一羽が息継ぎ>

<お見事 揃いました>

 いわばシンクロの団体競技です。でも、演技では無いので誰かが頭を上げてしまします。タイミングを見計らってその瞬間を撮らせていただきました。オス4羽の見事な競演でした。シンクロナイズドスイミングのヒントはこれだったのでは?と思ってしまいます。

 

平成26年1月6日 (京都土木事務所Y)

 

【鴨川真発見記を紹介していただきました】

 鴨川真発見記を御覧いただいて、メールやお便りも頂くようになりました。このコーナーの情報発信力も上がって来たようです。そんな中、更に広めていただく機会をいただきました。

 上京区のまちづくりアドバイザーの浅田さん(京都市職員)に、上京区のまちづくりサイト「カミング」の中で「鴨川真発見記」を紹介していただきました。鴨川を実際に歩きながら「鴨川真発見記」のあれこれをお話した内容を丁寧に記事にしていただきました。皆さんも「カミング」を御覧になってみてください※カミング(外部リンク)

 

 第127号 鴨川の冬といえば

雪化粧とユリカモメ

 アメリカでは、ナイヤガラの滝の一部が凍り付く寒波に見舞われ、日本の東北地方では大雪で覆われている2014年の冬ですが、今季初めての鴨川雪景色が披露されました。

 1月10日金曜日、朝目覚めると周辺の屋根に雪が積もっています。「今季初の鴨川雪化粧を逃す訳にはいかない」と高野川、鴨川へと向かいました。

 高野橋から上流を望むと、「法」の字の周りが白く浮かび上がっています。比叡山も雪を被って白くお化粧をしているようです。下流側も白く雪化粧です。

<法の山にも>

<法の山>

<比叡山にも白く雪が被っています>

<下流も白く>

 賀茂大橋から上流を望むと、白く雪を被った高水敷、北山も葉の替わりに雪をまとっています。その境目も判らない位に白い雲が重なり、その上空には透き通るような青い空が広がっています。まさに快晴の雪景色とはこういう景色でしょう。

<鴨川側>

<合流点>

<高野川側>

<賀茂大橋から上流 つなぎ合わせると>

 葵橋から上流へ向かうと、芝地は真っ白に雪に覆われて、足跡の無いところに、足跡を付けて振り返る人も見受けられます。雪の朝も走る人は欠かさず走っておられます。足元にお気を付けください。この日は、歩行者も自転車も転ぶ方が続出していました。

<足元には気を付けて>

 鴨川を代表する風景の一つ「出雲路橋から上流を望む」風景です。新緑から紅葉へと変化しますが、この雪化粧だけは樹木自身の変化では達成できません。これまた自然の降雪の力を借りて、冬の風情を描き出しています。

<出雲路橋上流 西>

<出雲路橋上流 中>

<出雲路橋上流 東>

 中州では、トビも寒さをやり過ごすという感じです。

<トビ>

 北大路橋までやってきました。ここまで来ると、北山が目前に迫ってきます。出雲路橋では見えていた青い空の部分が見えなくなって、白い雲で覆われています。これが、天気予報でよく耳にする山沿いでは「・・・」と変わりやすい気象の現れでしょうか。

<山沿いではお天気が崩れるでしょう>

 西を見ると、春から秋にかけては葉で覆われた大樹に目隠しされていた川沿いの建物が、落葉した枝の隙間から姿を見せています。その向こうには青空が広がっています。

 冬の間は、鴨川沿川の色んな建物や、民家の佇まいを見ることができます。もしかしたら、冬の鴨川の魅力の一つとして、まち並みと鴨川というキーワードが浮かび上がってくるかもしれません。

<ここには「こんな」建物が>

 鴨川の冬といえば、もう一つの代表は「ユリカモメ」です。今年もその姿を少し詳しくご紹介しましょう。

<ユリカモメ 少数の群れ>

 二条大橋上流の飛び石の傍に出来た中州で、群れている「ユリカモメ」を見かけました。飛び石へと下りて、「ユリカモメ」目線で鴨川をと思い近づくと、一斉に飛び立ち、中州へ戻りの繰り返しで、その飛行する姿を撮らせてくれました。

<中州から一斉に飛び立ち>

<その上空を旋回>

<順次中州へと戻り>

<元通り整列>

<また上空を旋回>

<誰の号令か?同じ事の繰り返し>

 群の「ユリカモメ」の行動は、皆で同じパターンで動くのに対し、単独の「ユリカモメ」は自由気ままといった感じです。水面に波紋を広げながらのんびりと浮かんでいます。

<なにか食べ物流れて来ないかな>

<水の中には無いようだし>

<賀茂大橋の陰で 飛び石の傍>

<おっと何か居た>

 「ユリカモメ」にエサを与える方が多くおられます。そのせいでしょうか、高水敷に立ち止まって眺めているだけで、「ユリカモメ」が近寄ってきます。そして何度か周りを旋回したあと、元の位置へ戻っていきます。

<寄ってくる“ユリカモメ” エサは与えていません>

<エサをもらえないと去ってゆく>

 鴨川冬の風物詩となった「ユリカモメ」も元を正せば「エサやり」で定着したそうですが、現在は自然の野鳥は自然のままにというのが適切な対応となっています。人なつっこいユリカモメにエサをやるのは楽しいとは思いますが、ここはグッとこらえて見守ってください。

 次回は、1月19日日曜日に少し多めの雪の積もった休日の「雪遊び」の様子をお届けしたいと思います。

 

平成26年1月15日 (京都土木事務所Y)

 

 第128号 琵琶湖からも鴨川へと水が来ています

疏水が合流する鴨川・高野川 “疏水真発見記”

 今回は“琵琶湖疏水”のお話です。

 “琵琶湖疏水”は、明治時代のはじめに京都府によって計画され、第1疏水の建設(蹴上から分岐する疏水分線を含めて1890年・明治23年完成)をかわきりに、その後第2疏水の建設(1912年・明治45年完成)などを経て現在に至っている水路です。

 鴨川、高野川、白川の流れにも滋賀県の琵琶湖の水を注ぐのが、京都市民ならずとも御存知の“琵琶湖疏水”です。疏水が、鴨川水系のこうした河川にどこから絡み合うのか少し調べてみました。岡崎にある「琵琶湖疏水記念館」で館長さんにもお話をお伺いして今回の記事にまとめました。

 最初に疏水が造られた経緯をさらりと説明させていただきます。明治維新によって天皇が東京へ移られ、元気を失った京都を復活させるためと言うのがキッカケです。

 疏水を通じて滋賀県との物資のやり取りを盛んにし、運ばれた水で発電し新しい産業を興そうということでした。さらには、田畑の灌漑です。

 蹴上で発電した電気を活用して、日本初の路面電車がここ京都で走り始めました。

 この疏水、第1と第2の2つの水路が設けられています。それぞれ京都市の蹴上へと運ばれて合わさった水は、最初に白川と合流します。混じり合った水は一旦真っ直ぐ西へ向かいます。そして白川と分流したあと北上し、京都会館の北西側で再度西に向きを変えそのまま真っ直ぐ鴨川へと向かいます。

<第一第二疏水合流点 疏水記念館パンフレットより>

<インクラインの横の水路を勢いよく流れ落ちる>

<白川との合流地点>

<ここで一旦土砂は沈殿しています>

<動物園の「キリン」「フラミンゴ」を横目に>

<平安神宮へと向かう朱塗りの橋を通過>

<平安神宮の大鳥居>

<通過後、南側の白川に分流>

<ここから白川へ>

<しばらくすると進路を北へ>

<京都会館の西側を北上>

 とここで、野鳥の姿です。今シーズンは鴨川に姿を見せないと思っていた「キンクロハジロ」が、個人的には初お目見えの「ホシハジロ」と一緒に群れています。潜水する鴨が疏水で群れているのでした。

<中央「ホシハジロ」その他「キンクロハジロ」>

<ついつい野鳥に目が行ってしまいます>

<キンクロハジロの団体です>

<突き当たりを西へ方向転換>

<ここから西へ真っ直ぐ鴨川へ>

<夷川船溜>

 鴨川真発見記的には、鴨川オンリーの素人野鳥観察を貫いてきましたが、目の前に初お目見えの野鳥が2種類も出てきては、紹介せずにはいられません。

 こちらも鴨川では見た事の無かった、「オオバン」の登場です。体は真っ黒で、くちばしと額だけが真っ白な一見“ダダ星人”(わかるかな?)の様な風貌です。

<オオバン 潜ります>

<自然のデザインも色々です>

 話がそれましたが、発電所前に何やら見慣れた形の石柱があります。三条大橋に橋脚の石柱に似ていますが、詳しいことは定かではありません。

<旧三条大橋の石柱だそうです>

<発電所を通過して更に西進>

 鴨川の手前までやって来ました。水路が2本並んで走っていますが、南側の水路だけに水が流れています。どうやら発電施設を通った水が流れているようです。もう一方は増水時に鴨川へ放流する水路で、普段は水が流れていないようです。

<鴨川へ向けて西進>

<京都市上下水道局疏水事務所、関西電力夷川発電所の入口から>

<空の水路が続いています>

<疏水は鴨川へと向かいます>

 冷泉橋という鴨川の左岸に南北に架かる橋の下をくぐって鴨川への放流口が開いています。普段は川端通の西側の開渠を御池通りまで流れ、その後地下に埋設された暗渠の中を南下しますが、水量の多い時には勢いよく鴨川へと注ぎます。

 増水時には、この樋門と、少し下流の越流堰からも鴨川へ放流されます。ともあれ、増水時や発電時にはここが一番近くの鴨川との合流点となります。

<鴨川左岸に架かる冷泉橋>

<右岸から 通常の様子>

<右岸から 増水時の水位調整>

<樋門にブロックされて南下>

<増水時に疏水から水が放流される大きな越流堰>

 もう一度蹴上付近へ戻って見ていきます。蹴上船溜下流から疏水は分水して北上していきます(疏水分線という)。鴨川が北から南へと下るのに対して、疏水分線は有名な水路閣を通って北へと向かいます。京都市の北が高く南が低い平均勾配1/200という地形の先入観が「何で高い所へ水が流れるのか」。妙な錯覚を感じさせます。

<疏水記念館パンフレットより 水路閣 >

 鴨川の流れもそうですが、普段イメージするのは京都盆地の真ん中を南北に切った断面の様子であり、一方の疏水分線の流れは東西に切った断面では東山が西より高くなっている地形を利用したものなのです。

 哲学の道に沿って北上した疏水は、銀閣寺の横を通り今出川通りを西へ向かいます。この時南下する白川と西進する疏水分線が立体交差します。

<哲学の道 下流から上流>

<哲学の道 上流から下流>

<ゲンジボタルの生息地を示す案内板>

<銀閣寺の西で西へ進行方向を変えます>

<白川との合流に向かって>

<白川と出会う>

<水路管へ引き込まれる疏水分線>

<白川と立体交差>

 今出川通り沿いに数百メートル西へ流れた後、再び北上していきます。北大路通りを潜り北西に進路を変更して高野の住宅街を抜けて高野川へと向かいます。高野川を“逆サイフォン”して松ヶ崎へと進み、西へ西へと進みます。そして鴨川を越えて小川へと注ぎます。

<北大路通りを通過>

<この先暗渠となって高野川へ>

<高野川を逆サイフォン>

 ここでサイフォンについてネットで調べましたのでご紹介します。

サイフォンとは

 ある液体を途中にある高い地点を越えて目的地に運ぶ時、液体の初期の地点から目的地まで管を引き、何らかの作用によっていったん液体を管の中に満たせば、それ以上のエネルギーを与えることなく、液体は初期の地点から目的地まで移動し続ける。

逆サイフォン(伏せ越)とは

 サイフォンを逆さにしたものです。水の流れが目に見える開水路(かいすいろ)がつながっていなくても、ある程度の水位差をもたせることで、入口からは水が吸い込まれるように入っていき、出口からは吹き上がるように水が出てきます。

 と、これが建設当初からの流れなのです。そして今でもその流れのままという思い込みをしていました。しかし、現状は少し違っているようです。まず、高野川を逆サイフォンしていた疏水は、現在では高野川を横断せず、水は全て高野川に落ちています。

<写真右側の放流口から疏水分線が流れています>

<近くで見るとこんな感じ>

 従って、高野川右岸の松ケ崎浄水場付近から流れる水は、疏水の水でも高野川の水でもありません。

 松ケ崎浄水場から流れ出る僅かな水から始まり、高野川の山端橋右岸下流から取水する「泉川」から引かれる農業用水の余水を受入れながら鴨川へと向かいます。

<今では疏水から分断された区間>

<松ケ崎浄水場>

<新たな流れがここから>

<松ケ崎浄水場から>

<泉川の余水も集まって>

 泉川と疏水分線が交わる場所に来ました。平面交差ということで、どんな事になっているのか覗いてみました。泉川の水が疏水分線(下流)と泉川本線に2分され、疏水分線の水は全て上流からの泉川本線に流れるように導水されています。

 ここで、疏水分線の水はすっかり泉川の水に置き換えられているのでした。

<写真上から泉川 流れの中程に導水の仕切り>

<南下した泉川と疏水が合流して泉川へ>

<泉川の残りの水は疏水分線へ 西進>

<北大路通手前で暗渠に>

<その先鴨川(賀茂川)まで暗渠>

 そして、鴨川(賀茂川)に達したその水はというと、以前は鴨川へ全て合流していましたが、その一部は鴨川を逆サイフォンして加茂街道の紫明へ向かいます。鴨川へと落ちる水は、結果として高野川から引かれた泉川の水ということで、高野川の水が鴨川と合流する最短ルートということになります。

 鴨川の水と高野川の水が出会うのは、出町よりも先にこの疏水の水が注ぎ込む北大路橋下流の放水口ということになるのです。

<疏水分線の鴨川放流口>

<暗渠から流れ出る水>

 疏水は、京都市の上下水道局の管理なのですが、この区間は同市の建設局左京土木事務所の管理となっているそうです。つまりは、事実上疏水分線ではなくなっているのです。

 先程鴨川を逆サイフォンした水はというと、流れを復活させた堀川の水再生に使われています。平成21年3月から堀川水辺環境整備事業により再び鴨川を越えた水は紫明通りで汲み上げているそうです。また、一部区間では火災や災害に備えて貯水もされているそうです。

 堀川の元々の水源はというと鴨川からの水だったのが、疏水分線の整備を機に琵琶湖からの水が加わり、その後鴨川の改修により水源が途絶えていたということです。

 ちなみに、疏水分線完成時には鴨川の川底に木樋という木製の管を通して横断していたものが、のちにコンクリート製となりました。前述の鴨川改修により堀川の水源は完全に雨水のみとなっていました。

<整備されたせせらぎ公園>

<汲み上げ施設>

<せせらぎの起点>

<せせらぎが流れていきます>

 さらに、その疏水分線を流れる水が浄化されて京都市民の飲み水として供給されていると思い込んでいた私にもたらされた「小さな驚き」がありました。

 それぞれの浄水場へと運ばれる疏水の水は、この分線ではなく、地下に埋設された導水管や導水トンネルといった別の手段で運ばれているのです。

 生まれも育ちも京都の京都人と呼ばれる方や、京都市の関係者の方にはごく当たり前の事かと思いますが、生まれも育ちも京都府の北部の私にとって、京都市の水道は琵琶湖から流れてくる疏水の水と聞かされて、疏水分線の水を飲んでいると思い込んでおりました。

<琵琶湖疏水記念館パンフレットより 琵琶湖疏水略図>

 現在、疏水分線の周りには哲学の道をはじめとする桜の名所が数多くあります。また、高野川と鴨川(賀茂川)に挟まれた区間には、桜はもちろんのこと、初夏にホタルが飛び交うスポットとなっています。

 田園地帯の広がっていた、京都市街地の北部にも住宅が建ち並び、農業用水の利用も大幅に減少し、疏水に流れる水は、人々の憩いと景観への配慮としてその流れは保存されています。古都京都にうるおいをもたらす疏水の流れを保存する京都市の配慮に頭が下がります。

 この記事を書いている途中で、京都新聞にタイムリーな記事が掲載されていました。昭和26年に休止した琵琶湖疏水の舟運を、観光ルートとして復活させる検討が始まったとのこと。実現したあかつきには是非乗船してみたいものです。その見出しが「疏水船復活へ船出 観光活用へ検討チーム」というものでした。

 何事も興味を持って見ないとわからないものだと再認識しました。鴨川真発見記のネタを追いかけた結果、思いがけず“疏水真発見”となりました。

 

平成25年12月26日 (京都土木事務所Y)

【追伸】

 今回の記事を作成するに当たり、「琵琶湖疏水」を管理されている京都市上下水道局並びに河川を管理されている京都市建設局の皆様にご協力いただきました。この場をお借りしてお礼申し上げます。

「親切できめ細かな対応ありがとうございました」

 

 第129号 鴨川で雪遊び

まれに見る雪と大人も子供も笑顔でふれあい

 京都市内の市街地に雪が積もる事は、近年数える程しかありません。そんな中、1月19日の日曜日に少々多めに舞い降りました。

 朝起きると北大路近辺は一面真っ白の雪国へと化しています。早速鴨川や高野川の様子を見に出かけてみました。

 高野川の高野橋の上では、雪の降らない国の方でしょうか、足を止めて少々興奮気味に見慣れぬ雪景色にカメラを向けておられます。

<高野川 高野橋から上流を望む>

<高野川 高野橋から下流を望む>

 日曜日とあって、学校やお勤めが休みの方も多く防寒具を装備して多くの方が高水敷へと足を運んでおられます。

<幼い子供の手を引いて>

 少々多めに積もった雪を踏みしめる度に、「グググッ」という新雪の音が、足の裏を伝って響いてきます。雪国さながらの感触が心地良いです。

 雪を見ると連想するのは、やはり雪だるまです。この日は、溶け行く雪を少しでも集めて個性的な雪だるまが勢揃いしています。

<耳の付いた雪だるま>

<高野川の飛び石>

 少し日が差してきました。近所に住む姉妹でしょうか。仲良く雪を集めて雪だるまの制作中です。

<雪だるまの共同制作>

 鴨川と高野川の合流点では、たこ揚げを楽しむ親子の姿が見られます。中には手作りのタコをあげておられる方も見受けられます。鴨川を渡る風を受けて舞い上がる「タコ」に大人も子供も大喜びです。

 「あがった、あがった」と喜ぶお父さんに娘さんから一言。「お父さんが一番楽しんでるやん。」 童心に帰ったお父さんでした。

<個性的な手作り凧>

<風をつかまえた>

 比較的上流付近では、小さな雪だるまが目立っています。飛び石の上に置いてあった雪だるまは手だけが付けてあるのかと思っていましたが、反対側に回ると少し悲しげな表情のお顔がありました。

<手だけ?>

<少し悲しげかな>

<雪だるまを倒さないように飛び石を通行>

<雪を見ると触りたくなりますね>

<雪だるまを作るには充分な雪です>

<帽子はカップで型どり>

<荒神水位計 守り神?>

<手が多い 千手観音?>

 ベビーカーを押して仲良く鴨川へとお越しのご家族連れに会いました。ご近所にお住まいとの事。お母さんが、雪玉を作ってお子さんに優しく放ります。お子さんも負けじと雪を手に取ります。

 “ケタケタ”と笑いながら走り回るお子さんの「お母さん、雪合戦ってホントに楽しいね」の言葉が、鴨川で雪合戦の記憶として、ご家族の心に残ることでしょう。

<ご近所のファミリー>

<ほら行くよ>

<お父さんも参戦>

 下流へ進むと、小さな雪だるまに混じって、若者が作る大きな雪だるま、そしてスコップを持ちだして更に大きな雪だるまもお目見えです。

<トレーニングの合間に>

<三段重ねの雪だるま>

<少しぽっちゃりの“ゆきうさぎ”>

<ひたすら雪を集めます>

<僕の背丈と同じくらい>

<お父さん頑張りました>

 今季は、雪遊びが出来る程の降雪があと何回あるか判りませんが、元気に雪と戯れるお子様の声が響く鴨川も楽しい遊び場の一つなのではないでしょうか。

 お風邪を召しませんよう、暖かくしてお出かけください。

 

平成26年1月20日 (京都土木事務所Y)

 

 第130号 カメの飛び石がこんなところにも

京都を飛び出し親しまれています

 年が明けて2回目の日曜日、朝刊に添えられた日曜版の一面に寝ぼけ眼で目をやると、「流れる川に飛び石」それを渡る野球少年の姿が目に入りました。

 「鴨川の飛び石、どこかな?」と思い、「高野川?」否、「出町?」否、「荒神?」否と順次否定していくと、「鴨川では無い!」ことに気が付きました。

 そこに記されていた場所は、広島県海田町を流れる「瀬野川」海田町であることが分かりました。

 早速、広島県の河川課へ問い合わせたところ、海田町の河川環境整備の一環として設置されたことが判りました。海田町の建設建設課の方をご紹介頂いてお話を伺いました。

 当時を知る職員の方に確認いただくと、設置を請け負った企業が判明し、そこの企業の現場実績としてHPに「鴨川」「瀬野川」の飛び石が紹介されているとの情報を得ました。

 HPを覗いてみますと、H3年完成の鴨川のカメの飛び石と、H5年の瀬野川の飛び石が紹介されていました。時期こそ少々ずれていますが、どうやら同じ型から生まれた兄弟ガメのようです。

 海田町の広報の方に御無理をお願いして、瀬野川のカメの飛び石の写真を送ってもらうことが出来ました。

 海田町には、「カメ」と並んで「カニ」の飛び石も設置されています。色んな飛び石があります。

 「瀬野川」でも「鴨川」と同様に飛び石は地域住民の方に大変親しまれていることを確認しました。私も是非一度この地に立ってみたいと思います。

<海田町(瀬野川)の飛び石>

(画像提供:広島県海田町)

<確かに鴨川のカメの飛び石と同じ形です>

(画像提供:広島県海田町)

<カニの形の飛び石もあります>

(画像提供:広島県海田町)

<サクラを眺めながら「憩いの場」海田町>

(画像提供:広島県海田町)

(画像提供:広島県海田町)

 鴨川で飛び石に親しむ皆さんの様子は、鴨川真発見記の中でも数多くご紹介しておりますので、このカメの飛び石が設置された20年程前の様子をご紹介します。

 当時のファッションと一緒に、今も変わらぬ飛び石利用の状況を御覧頂きたいと思います。

 「鴨川」「高野川」でカメの飛び石が設置されているのは、高野川の高野橋下流、「鴨川」と「高野川」が合流する賀茂大橋上流、そして荒神橋上流の3箇所です。

 飛び石が設置された当時から、子供達の水遊びの場として、涼を取る涼みの場として、また川を渡る橋代わりとして多くの人に親しまれている様子が見て取れます。

高野川のカメ

 川底に設置したブロックの上に設置された飛び石は、設置当初は堆積土砂も少なく、こんなに飛び出していました。

<高野川の飛び石>

出町のカメ

 賀茂大橋上流の鴨川、高野川合流点の飛び石は、カメに混じってチドリの形の飛び石も設置されています。飛び石が設置されている場所の中で、一番賑わうのがこのスポットです。当時から賑わっていたようです。

<出町の飛び石>

荒神口のカメ

 荒神口で亀石の設置工事をした時の写真があります。コンクリート枠の構造物を並べて、その中に砕いた石を詰め、その上に飛び石のブロックを並べていきます。飛び石の下はこうなっていたのですね。

<飛び石設置工事 荒神橋上流>

 暑い夏の一日、パンツ一枚で飛び石を飛び回りながらの水遊びの光景も残されています。躍動感ある子供達の動きと、白いしぶきを上げる川の流れが真夏の鴨川の臨場感を感じさせてくれます。

 でも、川にはいろんな危険もあります。必ず保護者の皆さんと一緒にお越しくださいますようお願いいたします。

<全身を使って大きくジャンプ>

<仲良く水遊び>

<お父さんも一緒です>

<カメにまたがって 浦島太郎の気分かな>

<ええい、脱いじゃえ>

 子供達の大胆な水遊びだけでなく、大人達も飛び石周辺で足を川の中に浸して涼を楽しんでおられます。今も昔も変わりない光景が広がっています。

<カメもこの頃はまだ白いです>

<買い物帰りの方の姿も>

 飛び石では、カメの背中に座って話し込む人の姿や、ひたすら飛び石を飛ぶ事を楽しむ人も見られます。この様子も今と変わらぬ光景です。

 鴨川で楽しむ人々の様子は変わりませんが、写真を見て変わったと感じる点はありませんか。川端通り沿いの樹木の様子です。

 この頃は植樹されて間が無く、樹木の背丈は低く幹も細かったので、通り沿いのまち並みが見渡せています。

<カメの飛び石の上で語らい>

<ジャンプするのが楽しくて>

<川端通りの東側のまち並み>

 20年前の様子いかがでしたか?

 今、鴨川の整備に関する新しいアクションプラン「千年の都・鴨川清流プラン」では、鴨川に新たな飛び石を設置することが検討されています。今後新たな形の飛び石がお目見えするのでしょうか。皆様乞うご期待ください。 

 

平成26年1月23日 (京都土木事務所Y)

 

 第131号 十年一昔(じゅうねんひとむかし)その変化は

十年前の鴨川を思い出してみてください

 鴨川真発見記では、これまでに明治から平成とその間約100年余りの間に鴨川そのものや、周辺の様子の変化を何度か紹介させていただきました。

 今回は、今昔といっても最も近い昔を見てみたいと思います。「十年一昔(じゅうねんひとむかし)」という言葉があります。広辞苑を引くと「十年たてばもう昔である。十年を一区切りと見てその間には大きな変化があるものだということ。」とあります。

 ちょーど10年前位の先輩職員の残してくれた写真が整理して保存されていました。その写真を見ると私の知らない鴨川が写し出されています。鴨川に興味が無かった頃の姿は、私にとって未知の姿です。

 10年間毎日見ている風景が少しずつ変化していくと、今目の前にある風景が当たり前となって、10年前と比べて大きく違っていても違和感を感じません。例えば、10年前に転居して久しぶりに訪れると、記憶にある風景と自然に比較して「変わったものだ」と思います。

 その逆に、今の風景を記憶において昔の写真を見ると、これまた「変わったものだ」と思います。これって人間の加齢による変化を写真で見た時と同じではないでしょうか。

 一昔を4つ以上重ねた私も「随分変わったものだ」と思います。

 話が逸れましたが、早速その様子を見ていきたいと思います。

変化の着目その1「階段からスロープへ」です。

 車イスやベビーカー利用の方にも鴨川公園へスムーズにお越しいただけるように、階段をスロープへと改修してきました。

 以前は階段しか無かった場所にスロープを併設したり、スペースが取れない場合は階段をスロープに置き換えたりしてきています。10年前は階段、今はスロープという場所の写真が3箇所出てまいりました。

 荒神橋右岸上流側へと進入する進入路もその一つです。階段を取り壊して緩やかなスロープを設置しました。

<荒神橋西詰め 平成16年>

 

<平成26年>

<階段入り口 平成16年> 

<平成26年>

<階段下北から 平成16年> 

<平成26年>

<階段下・東側から 平成16年>

<平成26年>

平成18年スロープ工事

<荒神橋西詰めスロープ工事1>

<平成26年>

<荒神橋西詰めスロープ工事2> 

<平成26年>

<荒神橋西詰めスロープ工事3>

<平成26年>

 賀茂大橋右岸下流側に進入するのも階段のみでした。茂った低木に囲まれた狭い通路を通り高水敷へと進みました。

<賀茂大橋西詰め 平成16年>

<平成26年>

<まずは階段を降ります 平成16年>  

<平成26年>

<狭い通路 平成16年>

<平成26年>

<更に高水敷との段差あり 平成16年>

<平成26年>

 北大路橋右岸下流側の進入路も階段ではありませんでしたが、がたがたとして車イスやベビーカーがスムーズに進入することが出来ませんでした。

<北大路橋西詰め交差点付近 平成16年>

<平成26年>

<同上下流を向く 平成16年>

<平成26年>

<同上 下流から 平成16年>

<平成26年>

<同上 平成16年> 

<平成26年>

変化の着目点その2「高水敷の公園内施設の変化」です。

 スロープの整備と並行して、公園の再整備も進められ、その周辺の様子も一変しています。

 鴨川の公園としての整備に関しては賛否両論があることも確かです。高水敷にも昔ながらの自然を残すべきといった御意見や、バッタが少なくなって子供が虫取りを出来なくなってしまったといった声も少なからず聞こえてきます。

 反対に過ごしやすくなったという声もいただいております。虫も全くいなくなった訳ではありませんので、その場所を探す事を楽しんで頂ければ幸いです。

 そんな訳で先程の荒神橋の右岸の上下流の様子です。

 高水敷を覆っていたコンクリートを取り除き、土の広場にしました。何昔か前に流行っていたローラースケートを楽しむ場だったのでしょうか。ブームも去り利用されなくなったのかもしれません。

<リンク状のコンクリート施設 平成16年>

<平成26年>

 砂場も猫の糞などの衛生面から各地の公園で撤去されています。鴨川も例外ではなく撤去されています。その砂場に馬跳び用でしょうか、動物の遊具と大小のキノコの様な腰掛け?の様な遊具が設置されていました。

 今はというと、ツクシの頭?タケノコ?はたまた“まゆまろ”が生えてきたような大小の突起物が顔を覗かせています。これまで、このニョキニョキは何だろうと思っていましたが、その答えの糸口を掴んだ様な気がします。これ以上は皆様の御推測にお任せしますので、色々と想いを巡らせてみてください。

<ニョキニョキと生えるキノコの様に 砂場 平成16年>

<平成26年>

 下流側も様変わりしています。この頃までは、鴨川公園には動物の置物とでもいうのでしょうか、そんな遊具をたくさん設置していましたが、今では全て取り除かれています。これが以前と比べると幾分か自然な感じがします。

<遠目には変わっていないようですが 平成16年>

<平成26年>

<イスとテーブル 平成16年>

<平成26年>

<一面に茂る草 平成16年>

<平成26年>

<こちらは「リス」 平成16年>

<平成26年>

 賀茂大橋の下流にも荒神橋同様に砂場があって、そこにも動物が設置されていました。こちらはカメ、ウサギ、カニです。このカニの型を使った飛び石が山科川に設置されています。

<黄色と白のカニ と ウサギとカメ 平成16年>

<平成26年>

<砂に埋もれるように 平成16年>

<平成26年>

<ここにもニョキニョキが 平成16年>

<平成26年>

 そして、高水敷の写真の中で、これは何?とネット検索してもよく判らないものがありました。出雲橋右岸上流に設けられていたコートの看板です。そこには、「鴨川公園クリケットゴルフ場」という文字が刻まれています。

 “クリケット”はメジャーなスポーツですが、そこにゴルフが加わると謎です。

<はっきりと“クリケットゴルフ場” 平成16年>

<コートのラインが引かれています 平成16年>

<平成26年>

 ネット検索で唯一ヒットしたのが、京都市横大路にある「クリケットゴルフ場」です。そちらに問い合わせたところ、現在は貸出されていないとのことで、管理されている方もルールなどはよく知らないということでした。

 この時、判っている情報ということで教えて頂いたのは、ラケットでボールを打ち合う競技で、京都発祥のスポーツということ、ただし「テニポン」ではないとのことです。

 10年前には、テニポンのコートとして使用されていたと思われる写真も出てきました。

<これはテニポンに転用?平成16年>

<平成26年>

 出雲路橋下流も、閉鎖的に植樹されていた低木が取り払われて、広い空間に築山が設けられ、快適な憩いの場となっています。

<造園風の植栽 平成16年>

<平成26年>

<手入れが難しそうです 平成16年>

<平成26年>

<かくれんぼには良いかも 平成16年>

<平成26年>

 皆さんがこの変化を御覧になって、どの様にお感じになるかは人それぞれ異なることと思います。行政もその時代の要請に応じて、これが総じて良いと判断して整備を進めてきました。今も論じられている鴨川のあるべき姿は、その時代に併せて変化するものであり、現在のわたしたちが、未来永劫の姿を論じる課題では無いのかもしれません。

 

平成27年1月27日 (京都土木事務所Y)

 

 第132号 小学4年生の目で見た鴨川の課題解決

「わたしたちの鴨川」を真発見

 鴨川真発見記第111号でご紹介しましたとおり、「わたしたちの鴨川」という学習課題を掲げ総合的な学習をされている「御所南小学校」へ出前講座でお手伝いをさせていただいたわけですが、その後2度同授業のサポート役として同校へお邪魔しました。

 回を重ねる毎に鴨川に対する児童達の問題意識や今後鴨川でどんな取組をすれば、もっと快適に鴨川を利用できるのかといった考えがまとまっていきました。

 そして、今回は児童達が話し合って導き出した鴨川に対する思いや課題解決の方針がまとまり、京都土木事務所へ発表にやって来てくれました。

 4年生の全生徒約200人が2クラスずつ3コマに分けて来所され、我々職員の代表にその内容を発表してくれました。

 皆さんの考えた鴨川をどうすれば良いかという事をグループ毎に前に出ての発表です。

 その内容は大人の「鴨川府民会議」でも課題として話合われている内容も多く含まれています。その内容をここでご紹介したいと思います。

 色んな課題に取り組んでくれていますので、いくつかの提案をまとめて整理してみました。同じような内容の提案も複数ありますが、皆さん一工夫されています。

ゴミの問題

 皆さん一番関心が高いのがゴミの問題のようです。ゴミを捨てないように啓発する看板の設置や、ごみ拾いのボランティア活動、そしてゴミを持ち帰ってもらうよう集団で声を掛けて回るという画期的な提案もありました。

 小学生の集団が、「ゴミは持ち帰りましょう」と声をかけながら、鴨川の高水敷を歩くわけです。ゴミを捨てようとしていた大人も、思わずゴミをしまうのではないでしょうか。「子供が見てるよ」と。

 「ゴミを捨てないように」の啓発ポスターの作成を、小学生にお願いしてそれをゴミ箱に貼ってみるのも効果がありそうです。

<4年4組の様子>

<ごみ拾いイベント開催>

<ゴミを捨てない、自然を守る、禁煙啓発ポスター、看板、チラシ配布>

<ごみの持ち帰りの声かけ>

<花に囲まれたゴミ箱> 

<花のふた付きゴミ箱を増やす>

魅力発信

 鴨川の魅力を発信する提案も数多くありました。鴨川の魅力を看板やパネルなどで展示して、鴨川の良さをPRするという提案です。鴨川で見ることが出来る動植物や風景、歴史など子供にも判りやすく展示するという内容の提案で、展示する写真も小学校などから募集するというのです。

 大人が、大人向けに作った展示物では、子供には楽しいと写らないようで、実際に既存展示物は少し難しかったようです。

 幅広い年齢層に受け入れられる展示内容が求められているのではないでしょうか。

<4年1組の様子>

<鴨川の魅力を発信する展示>

 

<双眼鏡付き情報板>

<様々な形の情報板>

<鴨川魅力館>

 ガイドブック「鴨川ガイドブック2015」を作成するとい提案も頂きました。鴨川の魅力をあらゆるジャンルで紹介するという内容です。真っ先に「鴨川真発見記」冊子版が頭に浮かんできました。作成される時には是非協力させていただきたいと思います。

<鴨川ガイドブック2015 楽しみです>

自然環境

 ゴミを少なくする提案とセットになっているグループも多かったのが、自然環境を守る意味の内容です。生き物も住みやすい環境とするために、植栽や川の中の整備について提案を受けました。

<4年6組発表の様子>

<自然を増やそう 生き物の住みやすい環境を作ろう>

<鴨川を良くするコンクール>

<中州の間を削る>

<竹の植木鉢に草花を植える>

<着物の形に花を植える>

<川底に土と岩石の層を作る>

<草を刈りすぎない>

<大きい中州を削り小さい中州を残す>

飛び石

 児童達が学習で鴨川へ実際に行った時にも人気が高かったのが、「飛び石」です。この飛び石の新たなスタイルの提案も受けました。飛び石の更なる整備についても“鴨川の新しいアクションプラン”「千年の都・鴨川清流プラン」でも触れられています。今後の整備検討の参考にさせていただきます。※「千年の都・鴨川清流プラン」にリンク

 飛び石に似た効果を持つ施設として、高水敷の右岸左岸を繋ぐ人道橋の設置という提案もありました。

<4年4組発表の様子>

<新しいデザインの飛び石>

<名所となる飛び石設置>

<中州へ渡る飛び石>

<増水時には潜没する橋の設置>

楽しめる施設設置

 大胆な発想が飛び出す「楽しめる施設」の設置です。鴨川の東西にトンネルを通して、トンネルの天井を透明にし、見上げると鴨川の様子を見る事が出来る様にする提案。鴨川の護岸付近に川の中を覗ける窓のような施設を設置して川の中の様子を見るという提案。と出来そうだけど、ハードルの多い提案です。

 さらに大胆に、鴨川の上にロープウエイを整備するという提案も飛び出しました。

 でも、これくらいの自由な発想が無いと新しいものは生まれて来ないのではないでしょうか。頭から「それはこういう悪い事につながるからダメ」という大人の硬い頭で否定するのは簡単ですが、そこからどうすれば実現するのか考えて見ても良いのではないでしょうか。

<4年2組発表の様子>

<鴨川を横断する地下トンネル>

<鴨川の中を覗けるレンズ窓>

<鴨川にロープウェイ>

<照明設備のリニューアル>

 

 現実的な提案も

マスコットキャラクター

 “ゆる”キャラグランプリも開催され、各地のご当地ゆるキャラが現れている中、鴨川にも“ゆる”キャラを登場させて皆さんに親しんでもらおうという訳です。

 みんなでデザインしたゆるキャラには「かもっピー」と名付けられていますが、人気投票一位のデザインは「オオサンショウウオ」とのこと。着ぐるみ作りが少し大変そうですね。

 鴨川名物「鴨川焼き」を作るという提案もいただきました。

<ゆるキャライベント>

<鴨川焼き>

 

<ゆるキャラとごみ拾い>

鴨川を楽しむ

 鴨川で何かをして楽しむという提案もいただきました。ウォークラリーを楽しみながら、鴨川の学習や環境への意識を高める提案や、茶道体験で日本の「おもてなし」を外国の方にも感じてもらう提案は鴨川で京都を感じてもらう提案です。東京五輪を控えて、昨年の流行語大賞にも輝いたキーワードが光ります。

<ウォークラリー> 

<茶道体験>

<クイズラリー>

<鴨川歴史ツアー>

<鴨川自然ツアー>

<魚つかみ&食べるイベント>

<鴨川上流、下流ツアー>

遊具の設置

 遊具の設置を提案していただいたグループもありました。実は10年余り前までは、鴨川の公園にも一般的な児童公園に設置されている遊具が設置されていました。その遊具は再整備の際に撤去しましたが、新しい視点での遊具設置提案には耳を傾ける必要がありそうです。

<4年5組発表の様子>

<遊具の設置>

<ピクニック広場>

<自然と遊具設置>

 御所南小学校の4年生のみなさんとは、3年連続して「わたしたちの鴨川」の学習を御一緒させていただきました。

 今年度は、最後に京都土木事務所まで足を運んで、各グループからの提案をいただきました。大胆な発想あり、地道な提案ありとどれもとても参考になりました。

 ゴミの問題にしても、何の問題でもそこに「関心」が無ければ色んな思いは生まれてきません。小学4年生で学習した「わたしたちの鴨川」を大人になっても財産として「鴨川」を見守っていただきたいと思います。

 御所南小学校の皆さん、貴重な提案をありがとうございました。先生方も「この素晴らしい学習」をありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

 

平成26年1月29日 (京都土木事務所Y)

 

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