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知恵の経営、元気印、経営革新、チャレンジ・バイの各認定等を受けた府内中小企業を紹介するページです。
(令和3年7月21日、ものづくり振興課 足利)
(令和3年3月10日、ものづくり振興課 足利・丸山・丸田)
東映株式会社京都撮影所(外部リンク)、株式会社松竹撮影所(外部リンク)の合同プロジェクトです。
(令和2年10月2日、ものづくり振興課 足利、丸田)
京都ヒストリカ国際映画祭(外部リンク)は、(1)世界唯一の歴史映画祭、(2)作り手による映画祭、
(3)京都「映画字幕ワークショップ」卒業生による字幕付きです。
東映株式会社京都撮影所(外部リンク)スタジオ事業部長の高橋さん、株式会社松竹撮影所(外部リンク)京都製作部長の永島さんに、お話をお伺いしました。
--いつも大変お世話になっているのですが、改めて日頃のお仕事のことを教えてください。
高橋)東映の京都撮影所には大きく3つの部門があります。まず、「プロダクション製作部」では、自社の劇場で上映するための、自社の作品を製作しています。次に、私の属する「スタジオ事業部」では、他社の劇場やテレビ放送で流すためのものを製作するために、当社の施設を貸し出しています。3つ目の「俳優部」では俳優を貴重な財産として育成しています。
--スタジオ事業は、施設を貸し出す?
高橋)ロケ地探しやスタッフの手配などのプロダクションサービスも行います。
--ロケ地と言えば、府でも「ロケスポット京都(外部リンク)」事業で紹介をしています。地域のご理解ご協力が必要ですし、制作側も「とっておき」の場所は秘密にしておきたいというケースもあり、何でもかんでも紹介できるというものでもないのですが、近年は、養鶏場跡など大規模ロケ地も整ってきました。
高橋)あそこは、映画『本能寺ホテル』爆破シーンでも使われていましたが、よく使っていますよ。4.7ヘクタールと広大で、現代的な構造物が広範囲で視野に入らない関西では珍しいロケーションです。また、京都市内から車で1時間程と近いのも魅力ですね。
--スタジオ事業を頼って来られるジャンルは?
高橋)「京都で撮りたい」と言って来られるのは、ほぼ「時代劇」ですね。
--ほほう。やはりそうなのですか?!現在開催されている「第12回京都ヒストリカ国際映画祭(外部リンク)」のオープニングトークで、山田洋次監督がおっしゃってましたね。映画の中身に直接関係のないことですが、その場でスタッフの方に、江戸時代の生活様式を勉強したい、あんどんに火を付けたらどのくらいの明るさ(暗さ)なのか、とお尋ねになったら、その場で火打ちでささっと火を付けられて大変感心した、そういった技術が残っているのは京都だけだと。永島さん、いかがでしょう。ご自身のお仕事のご紹介も合わせてお願いします。
永島)はい。私自身は、「プロダクション事業」と「スタジオ事業」の両方を担当しています。さて、たしかに、オープニングのトークショーで山田監督は「京都じゃなきゃできなかった」とおっしゃってましたね。「たそがれ清兵衛」は山田監督の事実上の初の時代劇映画でもあるわけですが、製作本数で上回る東京(大船)のスタッフと、時代劇作りのノウハウを有する京都(太秦)もスタッフが、競い合いながら互いの良さを発揮したと聞いています。
--とても素晴らしい作品ですよね。本府でも、京都文化博物館が中心となって、東映さん、松竹さんにお世話になりながら実施してる「フィルムメーカーズラボ(外部リンク)」において、国内外から多くの方が京都の時代劇制作について学びに来られていますね。
永島)映画監督、脚本家、カメラマン、プロデューサーなど多岐に亘る方がいらっしゃいます。時代劇セットはもちろん、美術、照明、衣装なども含め、プロの方法論で本格的な時代劇をワークショップ形式で体験できます。
--今回の「京都ヒストリカ国際映画祭(外部リンク)」でも、凱旋の方がいらっしゃいましたね。
高橋)「オルジャスの白い馬」ですね。2011年に「フィルムメーカーズラボ(外部リンク)」に参加された竹葉リサさんの日本・カザフスタン共同制作作品ですね。
--京都の競争力について話を戻しますと、時代劇制作のノウハウも詰まっており、制作人材も揃っており、ワンストップで効率的に制作できるというのが強みかなと思いますが、近年は、関東、東北にもオープンセットがあり、京都に来なくても時代劇が撮れるような外部環境も生じてきているのではと思いますが、いかがでしょうか。
高橋)まず、京都の場合は、オープンセットと我々のような人材が一緒におりますね。さらに、撮影所近辺に関係者がたくさんいますし、東京の方からは「京都の方が人に出会える!」と好評をいただいています。それに、ロケ地も近い。省力的に制作するにも向いていますし、移動時間が少なく役者さんにも優しいですしね。
--さて、松竹さんのホームページによると、エジソンの会社が開発した、箱を覗いて動く映像を見る「キネマトスコープ」が日本に持ち込まれたのが1896年(明治31年)。大きなスクリーンに映像を映写できる「シネマトグラフ」がフランスから輸入されたのが翌1897年。日本人初の映画撮影として、浅野四郎氏が「化け地蔵」など短編映画を撮影したのが1898年。各家庭にテレビがある、いやむしろ、スマホで様々な「映像」コンテンツを見られる現代と違い、もともと、劇場等に集まって芸術を視聴してきた人類の歴史の延長上に、映画が生まれたわけですね。
永島)そうですね。最近の映画は、映像技術ひとつとっても、技術革新、デジタル化が進んでいます。映画館もシネコンが定着し、上映中の出入りも原則できないなど、見る側の集中力も高まる仕組みが定着してきました。かつては、観客も、例えばみかんを食べながら見るとか、ぺちゃくちゃ反応して笑いながら見るとか、「よっ!!寅さん、待ってました!!」とかけ声をかけたりと、映画がもっと気軽な娯楽であり、観客の一体感も高かったのだと思います。
--初期の頃は特に、映画でも歌舞伎の影響で女形が女性役を演じていたなど、人形浄瑠璃や歌舞伎、歌舞伎の改革運動として勃った新派等の他の芸術の影響を受けていたそうですが、日本にシネマトグラフが持ち込まれた時からいらした説明者、後の「活動弁士」は、日本独自だそうですね。これも落語や講談などの影響もあったのかもしれませんが、先日のCMEXレセプションでも現代の活弁士さんにおいでいただき、とても盛り上がりました。ハリウッドなど海外に倣いつつ、日本の芸術とも結びつく「ハイブリッド」性は、映画に限らず日本のお家芸ですね。
高橋)そうですね。逆に悪い面を敢えて言えば、日本はガラパゴスですね。新型コロナウイルス感染症が蔓延した際にも、ドイツのメルケル首相はいち早く「ドイツは文化の国だ」と発信し、文化的イベントの重要性を示しておられましたが、日本では映画の社会的地位が高いとは言えません。
--それは製作費への支援が少ないということですか?
高橋)そうですね。
--本府では、優秀な映画企画のパイロット版づくりを支援する「京都映画企画市(外部リンク)」に取り組んできていますが、カンヌやベネチアでも、新人育成制度、助成制度で構想段階からも支援があるそうですね。そう言えば、今回の「ヒストリカ(外部リンク)」でも、ヒストリカワールド作品の監督とのオンラインQ&Aをやってますが、私がたまたま観た、英国で撮られた「荒地の少女グウェン」の監督も製作費の公的助成を受けられたとおっしゃってましたね。
高橋)そうなのです。また、製作側の問題としては、韓国などもそうですが海外の作品は、最初から海外展開を見据えて作られています。
オンラインQ&Aの様子
--どういうことですか?
高橋)例えば海外展開を見据えて、海外の資金を獲得するためには、映画企画の段階で海外に理解してもらう必要があるわけですが、台本のフォーマット自体が日本は異なっているし、各社でもバラバラなんです。映画製作の多額の資金を獲得するために、日本では製作委員会方式をとられるケースが多く、そうなると、どうしても制作現場にお任せしっぱなしになるということの結果でもありますが、こうした標準化を進める必要があります。
--なるほど。
高橋)しかし、近年は、最初から海外でデビューする若手監督も出てきました。ハリウッド映画を超える興行収入を生み出したコメディ映画を作られたりしています。
--いいですね。では、ガラパゴス化が進んだ(笑)日本映画の歴史を少し振り返りたいのですが、たしか日本に撮影所が登場したのは、ハリウッドと同時期くらいでしたよね?日本最初の撮影所は1908年(明治41年)に吉沢商店が東京目黒に作られましたが、それに続いて自社製作を始めたのが、京都で外国映画の輸入を営んでいた横田商会。同じ年に、日本最初の映画監督であり、後に日本映画の父と呼ばれる、当時、芝居小屋「千本座」経営者の牧野省三氏に依頼し、その第1作目「本能寺合戦」を京都市左京区の真如堂で撮影、発表。それら吉沢商店、横田商会など4社で日本初の本格的映画会社「日本活動写真株式会社」つまり「日活」を作ったのが1912年。東京と京都の二条城西櫓下に撮影所を設けました。これは、ハリウッドのフォックス、ワーナー・ブラザーズなど(前身の会社)と同時期の設立だとお聞きします。
高橋)そうですね。牧野さんが見出した「目玉の松っちゃん」こと尾上松之助さんは、日本映画最初のスターとしてその後1,000本以上の作品に出演。しかし、牧野さんは、やがてよりリアルな殺陣を求める顧客の要求に応じ、日活から独立して、バンツマこと、阪東妻三郎さんなど多数のスターを輩出するとともに、彼らの多くも牧野さんに倣って独立プロを擁立するなど、京都の映画都市としての基盤が作られました。
--一方、「松竹」は1920年に「松竹キネマ合名社」を設立されました。
永島)「ヒストリカ」のオープニングで、当社の会長の大角が申してましたとおり、松竹は1895年に京都の新京極の劇場からスタートしています。そこに点在する土地は今でも手放さずにいます。映画を手掛けたのは創業から25年後であるのですが、映画への進出に当たっては海外視察など研究を重ねていたと聞いています。
--ユニバーサル社を視察し、撮影所が丸ごと都市になっていて、世界中にフィルムが輸出されることも踏まえ、満を持してと、ものの本で読んだことがあります。日活がリアルで重厚路線であったのに対し、松竹は都会風で洗練されたもの、という傾向があったとお聞きしますし、俳優養成所を建てて女優を次々と輩出されたり、独立プロでは設備の問題もあり難しく、なかなか普及しなかったトーキーを日本最初に成功させた作品『マダムと女房』を1931年に作られたり、先鋭的な取組をなさってこられたのですね。一方、東映さんは・・・
高橋)東映の母体である東横映画は、1938年に設立され、東急電鉄沿線に映画館を経営していました。それが戦後、大陸から引き揚げてくる映画人の救済のためということもあって立ち上がり,ゼロからのスタートとして白羽の矢が立ったのが、京都太秦の大映の第二撮影所を借り受けるということでした。
--そうだったのですね。また、日活は大映と関係を解消し、製作・配給・興行とも一手に担い、映画館で上映する作品も映画会社が決定権を握り、その年間の上映日程が映画会社のスケジュールに沿って上映する「プログラムピクチャー」方式を導入。
高橋)俳優も大きな目立つ顔の方から、長身で手足の長い石原裕次郎さんのような方が人気を博すようになりました。さらに、1950年代は、黒澤明監督が「羅城門」でヴェネティア国際映画祭のグランプリを、溝口健二監督も3年連続ヴェネティアで受賞。黒澤明監督は、東宝と関係が強い方ですが「羅生門」は大映ですね。東映京都撮影所とはいろいろあったそうですが。溝口監督は、大映(日活)や松竹との関係が深い方ですね。こうして、日本映画は1960年に製作本数547本とピークを迎えます。
--1950年代は時代劇も大人気だったそうですね。
高橋)1955年の年間174本をピークに年間150本程度で製作されていたとお聞きします。
--ピークの頃の時代劇制作本数は尋常でないと思いますが、そこで、時代劇の効率的な生産ノウハウが蓄積されたわけですね?!
高橋)京都の東映では誰もが走ってるなどという噂もあったそうですが、たしかに、時代劇は通常よりも手間がかかりますからね。そんな中で、少々雑な台本であっても、殺陣師グループがある意味パターン化された殺陣を披露して対応したり、それぞれのプロがたくさんいたということが大きいですね。当時は、老若男女がターゲットでしたから、あまり生々しい殺陣だと子供が見られないですし。それに、人気のスターが居たから成り立っていた面もあるかもしれませんね。ライティングもスターの顔が映えるように、あまり陰影が出ないような手法を敢えてとっていた時期もありますね。
--しかし、1960年以降、日本映画は下降路線を辿ります。高度成長期でテレビの普及などレジャーの選択肢が広がったことが大きいのでしょうね。厳しい言い方をすれば、従来方式が大繁盛であった故に、イノベーションのジレンマに陥ってしまったということかもしれませんが。
高橋)そういう面はありますね。東映は、1960年代に入ると、時代劇に加え、任侠映画も多く製作しました。松竹は1969年に山田洋次監督の『男はつらいよ』が始まりました。
--テレビの時代劇は、ちょうど私の子ども時代で、よく親子で家族団らんで拝見しました。懐かしいし、良い時代でした。しかし、それもやがて、若者離れによりスポンサーが付きにくくなってということをお聞きします。「伝統芸能ではない新しい時代の劇」というネーミングの時代劇にとって、少し皮肉にも思いますが。しかし、時代劇に限りませんが、映画とテレビの違いなどを知ると、とても過去の映画の時代劇は味わい深いですね。
高橋)テレビは1つのシーンで複数のカメラを設置し、様々な角度で撮影しますが、映画は基本1台ですし、だからライティングも違いますね。
--そう。だからこそ、逆にグッと入り込んで見てしまいますね。余白というか、空気というか、逆にそれをすごく感じます。小説などと少し似ているのかもしれません。今回の「ヒストリカ(外部リンク)」でも、そういう目線で見るととてもおもしろいです。やっぱり専門家の解説を聞くと断然面白みが増しますね!
高橋)ありがとうございます。冒頭に申しました「スタジオ事業部」的な目線というか、京都にいかに撮影を呼び込むか、だったら映画祭を開催し、そこに関係者を連れてこようということで始まりました。世界唯一の歴史映画祭、作り手による映画祭であり、京都「映画字幕ワークショップ」卒業生による字幕を付けています。あくまで産業支援として実施していますので、海外の歴史映画が日本の時代劇にどう反映させられるか、日本の古い時代劇から今学び取れることは何か、といった、作り手のための目線で、作品を選定しています。もちろん、それは一般の方にはより大いに楽しめる作品だということだと思っています。
京都ヒストリカ国際映画祭(外部リンク)、京都文化博物館で開催中
--また、映画は特に、時代劇もそれ以外も、むしろ逆に先鋭的なものも輩出されてきています。
高橋)時代劇に限ったことではなく、インディーズと言っていいのかわかりませんが、1990年代以降、北野武監督をはじめ再びすごい方々が輩出されており、近年は女性監督も多いですね。また、製作委員会方式ではなく、クラウドファンディングなど、資金調達の方法も多様化してきましたね。
--今後の展望についてはいかがでしょうか。
高橋・永島)先ほども申しましたが、京都には、セットも人材もノウハウも詰まっていますし、効率的に作ることもできますし、人が集積しているので、新たなチャレンジもしやすい場所です。現在も、京都府の補助金を使って、新しい技術開発に東映・松竹が連携して取り組んでおり、京都の映画資源でハリウッド等からも制作依頼がどんどん来るような時代に向けて邁進していきます。
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