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役中日記
「役中日記」 千吉西村家文書
京都の商人西村氏は、文久3年8月18日の政変での壬生浪士(新選組)について、錣(しころ)襦袢や頭巾を身につけ刀・鑓・長刀を携えた4・50人と、甲冑を着込んだ大将分2人(おそらく近藤勇と芹沢鴨)が「当方表通行」したと記しています。おそらく、彼らは西村家(中京区三条衣棚町辺)の前、三条通りを抜けて御所へ出陣していったのでしょう。 
新選組については噂話を記しているものが多いのですが、この日記に記されているのは、西村氏が実際に目にした姿だと思われます。
<解読文>
文久三癸亥八月廿二日迄別帳へ相控御座候
八月十八日早暁より禁裏御所前代未聞之大騒動、何之故歟ハ
不知、前夜四ツ時より、守護職松平肥後守殿多人数ヲ召連、俄ニ内参、
中川宮様ヲ奉供禁中へ罷出、諸々江触有之候歟、在京之諸大名ハ
素より諸屋敷方留主居等ニ到迄、一家も不残追々守護ニ被出候、尤も
鎧甲携へ手鑓持、又ハ陣羽織ニ腹巻、六具とも具足致候も有之
候得共、多分ハ甲冑持参火事装束ニ候、手鑓長刀抜身も有之、鉄砲ハ
沢山ニ持参、上杉藤堂始其外大名方ニより、大筒ヲ車ニのせ馳行、中ニも
壬生浪士中但し肥後守殿御預り分四五十人ヲ何れも手ニ手ニ白刃鑓長刀
所持致、身ハ錣襦袢或ハ同頭巾等着し、大将分両人甲冑ニ而当方表
通行被致候、且又十八日十九日廿日追々連日右之仕合近国之諸侯何れも何れも内裏之」
宮中如雲霞軍兵相詰り、其余ハ御廊外ニ罷在、御六門尤も諸大名之
之御囲メ厳重ニして、中立売御門ヲ出入吟味上有之、猥りニ出入不許厳重事
申上も無之、廿三日四ツ時藤堂新助ト申方寔ニ立派之御行粧釼付鉄砲
二百五十丁余、幟イロイロ馬印片はみ上白毛中丸ニ片喰金波金馬れん小□□
鉄砲ノ先キニ鎧ヲ引かけ、或ハ風呂しきニ包有もアリ、足軽迄も皆々鎧持参、
寔ニ以前代未聞の義ニ候、到今日如何之訳合歟頓ト相分り不申後風説待而已
※解読文はホームページ掲載の都合上、一部編集・省略しています。