選定理由 |
中新世の第一瀬戸内累層群の中、東部の海成層で最も北西に位置するもの。 |
分布 |
東部の第一瀬戸内累層群は長野県富草から愛知県、岐阜県、滋賀県を経て、京都府、三重県、奈良県に分布している。 |
特徴(特異性) |
宇治田原町奥山田の中新統は、地質・化石の研究・勉学の地として知られてきた。昭和24年7月3日の京都地学同好会主催の化石採集会は180名の参加者があった(池邊、1949)。石田他(1954)、奥山田研究グループ(1954)によって層序・構造が明らかにされ、豊富に産する貝化石はItoigawa(1956)によって記載された。その後、とくに京都の高校地学の実習地として多くの生徒が訪れた。その教材として、地学団体研究会京都支部編(1965)や京都地学教育研究会、各高等学校も独自に実習案内をつくった。石田(1979)は東部と西部の第一瀬戸内累層群は東西に連なることはなかったことを示した。すなわち瀬戸内海というイメージの再考を促した。神戸・淡路の神戸層群、小豆島の土床層群が古第三紀であるということが判り(栗田他、2001)、京奈から小豆島までは中新世を通じて海進はなかったことは確からしくなった。しかしながら、紀伊半島や四国が中新世にどのような状態にあったかを明らかにできないままである。 |
現状 |
国道307号線沿いの法面はほとんど地層の露出はなくなった。 |
特記事項 |
国道沿いの露頭はなくなったが、地学実習や化石採集は河川や谷で行われている。多くの人が一度に訪れて土地を荒らし、地元の迷惑になったことは十分考えねばならない。一方、国道工事などで大量の化石が谷底に埋めたてられたこともあった。地学実習、化石採集などの場をつくることが望まれる。 |