明治中期における京都府南部の里山の植生景観
京都精華大学人文学部●小椋 純一
1 はじめに
上述のように、絵図類を中心的資料にして江戸時代末期から室町後期にかけての京都近郊山地の植生景観を考えると、山紫水明と言われてきた京都でも、かつては高木の森林が少なく、ハゲ山さえも珍しくなかったということが明らかになってくる。それでは、今日のように、そのほとんどが高木の森林で覆われた山の姿は、いつ頃から見られるようになったのであろうか。そのことを考えるには、明治期の植生景観をしっかりととらえる必要がある。
明治になると、その当時の植生景観を考えるためのよい文献資料も大幅に増え、また幕末に日本に入ってきた写真がより多く撮影されるようになる。さらに、欧米を手本とした詳しい地形図も作成されるようになる。
明治10年代後期から20年代初期にかけて作成された仮製地形図は、0.1haに満たない竹林や茶園も数多く記され、また、松林の他にも杉や檜の林の分布も詳しく読み取ることができ、植生図的な要素もあるものである。しかし、仮製地形図には、植生記号に関して不明な部分がいくつかあり、仮製地形図から当時の里山などの植生景観をより詳しくとらえるためには、そのような不明な点を明らかにする必要がある。
ここでは、かつての文献や写真なども参考にしながら、仮製地形図の植生に関する記号の不明な部分を明らかにした考察(小椋 1992)の概要などを述べるとともに、その考察結果を踏まえて仮製地形図で測図された明治中期における京都府南部の里山を中心とした植生景観を考えてみたい。
2 仮製地形図における植生表現の特徴と問題点
明治17年(1884)3月、参謀本部測量局は大阪や京都や神戸など、近畿地方の主要部分の測図を開始し、明治23年(1890)にそれを完了している。その2万分の1の地形図は、正規の三角測量や水準測量の成果に基づかないものであることから、「京阪地方仮製2万分1地形図」と名付けられ(測量・地図百年史編集委員会 1970)、一般に仮製地形図あるいは仮製地図と呼ばれている。
この地形図は、図幅の総数が94にも及ぶものであり、近畿地方を広範囲に測図した本格的な地形図としては最古のものである。京都府では、南部の大部分が測図されている(地図1参照)。また、その記号数は293(測量・地図百年史編集委員会 1970)にもおよび、特に植生については、森林を松林、杉林、檜林、楢林・椚林、雑樹林に分け、またその樹林の大小や正列か否かも区別されているなど、これまで日本でつくられてきた地形図の中では最も細かく分類されている(図1)。
そのように植生が細かく分類されているのは、当時のいくつかの測量関係文献から考えると、仮製地形図が軍用地図的性格の強いものであったためと考えられる。たとえば、やや年代が下るが、明治33年(1900)発行の『測図学教程』(教育総監部 1900)の緒論には、軍用地図と一般地図の違いなどについて次のように述べられている。
「地圖已ニ方位アリ山川村落アリ普通ノ旅客ハ之ニ據ラハ途ニ迷フコトナク所望ノ地ニ達シ得ルヤ必セリ然ラハ則チ之ヲ以テ直チニ軍事ノ用ニ供シ得ヘキカ山岳緩急ノ程度、河岸ノ高低其他一宇ノ茅屋一畆ノ樹林ト雖モ忽ニスヘカラサルナシ蓋シ其不十分ヲ感セン之カ為ニ特ニ軍用地圖ノ必要ヲ生ス」
また、仮製地形図が作成されるようになる3年ほど前に発行された『兵要測量軌典』(陸軍文庫、1881)には、「戦術に関する土地の性質」の中で森林について次のような記載がある。
「樹、小樹、稚樹、樸叢ヲ以テ蔽フ所ノ土地ヲ總稱シテ森林ト云フ而シテ其廣狭ニ従ヒ籬笆、小叢、果園、小林或ハ大林ト云フ……(中略)……大林ハ其縁部ノ外戦闘ニ利アラサル者ナレトモ兵略ニ於テハ却テ大利アリ大林若一山脉ヲ覆フトキハ殊ニ然リトス是レ斯ノ如キ土地ニ在テハ我地位ヲ敵ニ秘シ且最良ナル防御線ヲ成形スルヲ得レハナリ……(中略)……森林ノ小ナル者ハ戦術ニ於テ甚緊要ナル者ナリ蓋シ歩兵ハ此所ニ屯シテ騎兵及砲兵ニ對シテ蔽障ヲ備ヘ諸兵ハ其運動ヲ秘スルヲ得攻兵ハ露身シテ之ヲ攻ルノ外術ナク守兵ハ之ニ由テ堅固ニ抵抗スルヲ得ヘク又攻撃運動ノ為ニハ依托點ト為スヲ得ヘシ……(中略)……森林ハ其種類ニ従ヒ頗ル兵ノ運動ニ困難ヲ致ス者ナリ斬伐林ハ大抵樹木稠密ニ枝條低クシテ撒兵歩兵ニ非レハ爰ニ入ルヲ得ス」
これらの記述から、当時の軍用地図において、森林等の植生も少なからず重要なものであったことをうかがい知ることができる。そして、仮製地形図が当時の植生を考える上で貴重な資料となる可能性を見ることができる。
しかし、仮製地形図は、実際にどの程度正確に植生を記載しているのだろうか。あるいは、仮製地形図には比叡山付近などのように、記号表には見られない記号が見られる部分もあるが、それはどのような植生の状態を表しているのだろうか(図2)。また、森林が大小に区分されているが、大木の森林(以下、「某林〈大〉」というように表記する)とはどの程度大きいのもので、一方、小木の森林(以下、「某林〈小〉」というように表記する)とはどのように小さなものを意味しているのだろうか。あるいは、山地には松林の記号がかなり広く見られるところが多いが、それはどのような松林だったのだろうか。また、しばしば見られる「尋常荒地」とは一体どのような状態のところだったのだろうか。仮製地形図から、それがつくられた頃の植生景観をより明らかなものとするためには、そのような不明な点を検討し明らかにする必要がある。
3 仮製地形図の植生表現の検討
いくつかの仮製地形図の植生に関する記号の不明な部分、またその記号の記載の正確さなどについては、当時の文献や写真などをもとにそのことを考えることができる。
(1)『京都府地誌』からの考察
仮製地形図の大部分が測図された明治18年(1885)から明治22年(1889)よりも何年か溯る明治10年代の中頃、太政官の全国的な地誌編纂事業の一環としてすすめられていた『皇国地誌』の稿本が、各府県ごとにまとめられ中央に提出された。それ自体は、関東大震災の際に焼失したが、京都府では『京都府地誌』(京都府)と題されてその一部が今日まで残っている。『京都府立総合資料館所蔵文書解題』(京都府立総合資料館歴史資料課 1985)によると、明治14年(1881)から明治17年(1884)にかけてまとめられたというその地誌には、愛宕郡、葛野郡、乙訓郡、紀伊郡、宇治郡、綴喜郡、相楽郡などの各郡と各村の山の植生に関しても、簡単ではあるが多くの記載がある。そのため、それらの記述とそれに対応する仮製地形図の各部を比較検討することにより、仮製地形図の植生の記載の精度や植生表現に関する不明な部分について、ある程度考えることができる。
ここでは、まず京都東山の山々について、『京都府地誌』の記述をもとに、仮製地形図の植生記号の不明な点について考えてみたい。『京都府地誌』にある愛宕郡郡誌および同村誌、また宇治郡村誌から、東山方面の位置を特定できる山と森林の植生に関する記載を、仮製地形図の各部分の植生記号とともにまとめると、表1および表2のようになる。それによって、仮製地形図の植生記載の正確さやその植生表現について、さまざまなことがわかる。
山名 | 山の植生に関する記述 | 仮製地形図の記号 |
---|---|---|
比叡山 | 全山巨樹森林ナシ只榛荊生ス(愛宕郡)、山上榛莽ヲ生ス(八瀬村)、 全山榛莽多シ松杉疎生ス(一乗寺村)、山中巨樹少ナク唯榛荊ヲ生ス(修学院村) |
大部分は記号表にはない図式、 一部に松林〈小〉等の記号あり |
東山 | 樹木稀生ス(高野村) | 不明図式、松林〈小〉 |
横山 | 樹木繁生(修学院村) | 松林〈小〉 |
丸山 | 樹木鬱葱(白川村) | 松林〈小〉 |
外山 | 樹木薈蔚(白川村) | 松林〈大〉、松林〈小〉 |
如意嶽 | 樹木稀少ト雖トモ半復以下ハ往々森林ヲ爲ス(愛宕郡)、 半腹以下ハ樹木茂生ス(鹿谷村)、樹木疎生ス(浄土寺村) |
大部分は松林〈小〉、 一部に尋常荒地及び松林〈大〉 |
南禅寺山 | 樹木茂生ス(南禅寺村) | 松林〈小〉、林〈大〉 |
大日山 | 樹木茂生ス(粟田口村) | 松林〈小〉、松林〈大〉 |
粟田山 | 樹木疎生ス(粟田口村) | 松林〈小〉、松林〈大〉 |
華頂山 | 樹木疎生ス(粟田口村) | 松林〈大〉 |
長楽寺山 | 樹木茂生ス(粟田口村) | 松林〈大〉 |
高臺寺山 | 樹木茂生ス(粟田口村) | 松林〈大〉 |
泉涌寺山 | 樹木茂生(今熊野村) | 松林〈小〉 |
阿弥陀峰 | 餘ノ状況泉山〈泉涌寺山〉ニ同シ(今熊野村) | 松林〈大〉 |
森林名 | 森林の樹高 | 構成樹種 | 面積(ha) | 樹木数 | 所在村名 | 仮製地形図の記号 |
---|---|---|---|---|---|---|
離宮山林 | 2丈ニ過キス | 松雑木 | 15 | 凡2790 | 修学院村 | 松林〈大〉 |
赤山林 | 2丈以下 | 松檜 | 7.5 | 凡 500 | 修学院村 | 松林〈大〉 |
大山林 | 2間半以下 | 松杉檜樫雑木 | 24.9 | 6172 | 浄土寺村 | 松林〈小〉 |
小山林 | 3間以下 | 松杉檜樫雑木 | 3.7 | 1174 | 浄土寺村 | 松林〈小〉 |
神楽岡林 | 2間半以下 | 松杉檜樫雑木 | 9.1 | 3852 | 吉田村 | 松林〈小〉 |
多項山 善気山林 | 3間以下 | 松杉檜樫 | 7.7 | 凡2660 | 鹿谷村 | 松林〈大〉 |
栗ノ木谷林 | 3間以下 | 松杉樫 | 4.4 | 凡 732 | 鹿谷村 | 松林〈大〉 |
不動山林 | 3間以下 | 松杉檜樫 | 4 | 凡 685 | 鹿谷村 | 松林〈大〉 |
大日山林 | 4間以下 | 松杉檜樫雑木 | 107.1 | 凡51645 | 粟田口村 | 松林〈大〉〈小〉 |
粟田山林 | 3間以下 | 杉檜松樅雑木 | 12.1 | 265 | 粟田口村 | 松林〈大〉 |
華頂山林 | 3間以下 | 杉桧樫雑木 | 3.3 | 847 | 粟田口村 | 松林〈大〉 |
長楽寺山林 | 3間以下 | 杉松雑木 | 2.3 | 182 | 粟田口村 | 松林〈大〉 |
高臺寺山林 | 3間半以下 | 松桧雑木 | 23 | 5612 | 粟田口村 | 松林〈大〉 |
清水寺林 | 3間以下 | 松杉檜雑等 | 25.2 | 14596 | 清閑寺村 | 松林〈大〉 |
清水寺下林 | 2間半以下 | 松 | 6.3 | 6515 | 清閑寺村 | 松林〈大〉 |
法華寺山林 | 2間半以下 | 松雑木 | 1.4 | 5224 | 清閑寺村 | 松林〈大〉 |
歌ノ中山林 | 3間半以下 | 松杉檜 | 3.4 | 4347 | 清閑寺村 | 松林〈大〉 |
阿弥陀峰林 | 3間以下 | 松桧 | 37 | 凡11360 | 今熊野村 | 松林〈大〉 |
悲田院林 | 2間以下 | 松杉桧 | 4.6 | 凡1890 | 今熊野村 | 松林〈小〉 |
泉山林 | 2間以下 | 松杉桧雑木 | 54.5 | 凡8807 | 今熊野村 | 松林〈小〉 |
たとえば、比叡山付近に広く見られる記号表からはよくわからない記号(頂上付近の「尋常荒地」や山麓近くの「松林〈小〉」などを除き図2の大部分に記されている)は、表1の比叡山についての記述から、榛莽地を示している可能性が極めて大きいことがわかる。また、表1には、「樹木繁生」、「樹木鬱葱」、「樹木茂生ス」などとあり、豊かな森林の存在を示しているともとれる記述が見られる部分も少なくないが、その一方で、「榛莽」、「樹木疎生ス」など、さほどよい森林の存在を示していないと思われる記述も多いこと、また、愛宕郡郡誌の中で、東山ではただ二つだけ取り上げられている比叡山と如意ケ嶽には、ともに豊かな森林が多くなかったことがわかる。
一方、表2からは、当時の東山方面における森林のおおよその樹高や樹種構成について、それらの森林の大部分が3間半(約6.3m)以下であり、高くても5間(約9m)に満たない低いものであったこと、また、それらのマツを主体とした森林は、マツの他にスギやヒノキなどを交えたものが多かったことがわかる。
これを仮製地形図の各部分と比較すると、仮製地形図ではそれらの森林の樹種構成はわからず、いずれも「松林〈大〉」または「松林〈小〉」となっていること、また、仮製地形図で「松林〈大〉」とされているものは、おおよそ、『京都府地誌』では3間(約5.4m)以下、あるいは2丈(約6m)以下と記された森林より大きなものであること、また、2間半(約4.5m)以下と記されている森林には「松林〈大〉」のものと「松林〈小〉」のものとがあること、そして、2間(約3.6m)以下と記されている森林より小さなものはすべて「松林〈小〉」とされていることがわかる(表2)。
なお、表2中、3間(約5.4m)以下と記されている森林のうち、小山林だけが唯一仮製地形図では「松林〈小〉」となっている。これは、記号の記載ミスの可能性も考えられるが、むしろその森林には3間(約5.4m)に近い樹木が少なかったことによる可能性が大きいように思われる。そのような例は、安祥寺山林(宇治郡御陵村)など、数は少ないが東山以外でも見ることができる。一方、森林の樹高が全体に高い場合でも、それが1haに満たないような狭い面積のときには、「某林〈大〉」の記号が仮製地形図上に現れないことが多いようである。
以上のことから、「松林〈大〉」と「松林〈小〉」の境が、『京都府地誌』で2間半(約4.5m)以下と記されている森林のあたりにあることがわかる。それは、東山以外の森林についても、ほぼ同様なことが言える。ただ、雙岡林(葛野郡御室門前村、15.2ha)については、『京都府地誌』では「壱丈弐尺以下ノ杉及ヒ雑木ヲ生ス」となっているが、仮製地形図のその部分には「松林〈大〉」の記号が見られる。これは、1丈2尺(2間、約3.6m)以下で「松林〈大〉」となっていることが確認できたものとしては唯一の例である。
なお、この『京都府地誌』と仮製地形図との樹種の相違については、御室門前村から京都府に提出された稿本が書き写されてゆく際に、松を杉と誤って書かれた可能性などが考えられる。
ところで、仮製地形図において、森林の大小がどの程度の高さで区分されていたかを考えるには、その測図が『京都府地誌』が記されてから1年から数年後のことであるため、その期間の森林の成長を考慮する必要がある。ただ、『京都府地誌』が記された時期とかなり近い明治18年に測図された京都府南部においても、森林の樹高が記されている例は多くはないものの、概して「3間以下」とされている森林では、仮製地形図には大きな森林の記号が記され、一方「2間以下」とされているものは、小さな記号が記されていること、また後述のように、当時の京都近郊などの森林は全般に成長がよくなかった可能性が高いことから、3間(約5.4m)のあたりで大林と小林の境があったことが考えられる。
一方、仮製地形図では基本的にメートル法が使われていることを考えれば、5mの高さを境に松林の大小が分けられていた可能性もあるように思われる。あるいは、『京都府地誌』とほぼ同時代に作成され、その記述内容の一致が見られる『愛宕郡社寺境内外區別取調帳』では、目通り周囲約1尺(直径約10cm)以上の樹木とそれ以下の樹木を分けていること、また後述の仮製地形図と同時代の写真の検討などから、目通り周囲約1尺(直径約10cm)のあたりで大林と小林の区別がなされた可能性もある。
松林以外の森林の大小についての記載は、その例が少なく十分な検討はできないが、たとえば、『京都府地誌』に「皆丈余ニ至ラス」とある愛宕山の月輪寺林(上嵯峨村)の一部に、仮製地形図では「杉林〈小〉」の記号が見えること、また、『京都府地誌』に「4間以下松杉檜樅栂」とある鞍馬山林(鞍馬村)や、「5間已下松杉檜樅」とある貴舩山林(貴舩村)にともに一部に「杉林〈大〉」の記号が見られることから考えると、杉林についてもその大小の区分は松林と同様であった可能性が小さくないように思われる。そして、一般に3間(約5.4m)または5mのあたりで森林の大小が分けられていたものと考えられる。あるいは、目通り周囲約1尺(直径約10cm)のあたりで大林と小林の区別がなされたのかもしれない。
なお、仮製地形図には、山地部に相当広く「松林〈小〉」の記号が見られるが、『京都府地誌』には全般に森林の記載が少ないこと、また、記載されている森林の中に「1間半以下」というような森林もあることから、仮製地形図で「松林〈小〉」とされている部分には、1間半(約2.7m)にも満たないマツを中心とした林も広く存在していたことが考えられる。
(2)「榛莽地」、「尋常荒地」、「草地」の概念について
『京都府地誌』の記述と仮製地形図との比較から、上述のように仮製地形図における植生記号の記載の正確さやその植生記号の概念がある程度明らかになってくる。しかし、その植生記号の概念については、まだ不明な部分も少なくない。次に、そのような仮製地形図の植生記号のうち、「榛莽地」と「尋常荒地」と「草地」の概念について検討してみたい。
(a)「榛莽地」
比叡山付近や鞍馬付近などにかなり広く見られる仮製地形図の記号表にはない記号は、「榛莽地」を示している可能性が大きいことは先に述べた。そのことは仮製地形図の「榛莽ヲ有スル荒地」、あるいは仮製地形図とのつながりが深いその後の明治24年式、28年式、33年式の各図式による地形図における「榛莽地」の記号などからも、最も矛盾なく考えられるところでもある。
ともかく、比叡山付近などにかなり広く見られる記号は「榛莽地」と考えて間違いないものと思われるが、では、「榛莽地」とは一体どのような状態の植生を意味しているのだろうか。
『広辞苑』には、榛莽[しんぼう]とは「草木の乱れ茂ったところ。しんもう」とあり、榛莽について述べている他の国語辞典にも似たような説明が多く見られる。しかし、仮製地形図で示されていると考えられる「榛莽地」は、そのようなとらえどころのないような植生の状態を示しているのではなく、もっと具体的な植生の状態を示している可能性が大きい。それは、仮製地形図の影響が色濃く見られる明治33年式図式について解説している『地形測図法式』(陸地測量部 1900)の、「榛莽地ハ矮小ナル雑樹ノ集合漫生スル土地ヲ云フ」との記述からも考えられるところである。あるいは、仮製地形図で乙訓郡小塩村西方には榛莽地が広く見られるところがあるが、その付近の植生について、『京都府地誌』には「雑矮木ヲ生ス」と記されている。
また、仮製地形図がつくられたのとほぼ同じ頃、比叡山南方山中の山中村の人々が、比叡山上部の京都府と滋賀県の府県境の西方部分(修学院村大字一乗寺の一部)の官林21町余りの下柴の払い下げを大阪大林区署長に求めており、その関連の文書の中には、明治23年1月28日記の次のような記述も見られる。
「字比叡山ノ内官林下柴ノ儀ハ、滋賀県部下ノ下柴ト同一視スルモノニ無之、該地ハ滋賀県部下ニ接続ノ地ト雖モ、概シテ有名ナル四明嶽ニ接シ、風雨激烈ニシテ、下柴等ノ類ハ発育充分ナラザルノミナラズ、小笹ト下柴トノ混生ニシテ品質良シカラズ、滋賀県部下ノ下柴払下高(箇)所ノ品質トハ其差異甚シク・・・(中略)・・・滋賀県ニ属スルノ部分ハ、柴ノ長サ四尺乃至五尺、該官林ノ部分ハ弐尺乃至三尺迄ニシテ、品質善良ナラズ」(山田 1975)
ここで問題となっている山の部分は、仮製地形図ではすべて「榛莽地」と考えられる部分であり、当時の比叡山上部の京都府側の「榛莽地」は、高さが2尺から3尺(約60cmから約90cm)とかなり低い笹を交えた柴地であったことがわかる。また、京都府側とは品質が甚だしく異なる滋賀県側の柴の高さが、4尺から5尺(約120cmから約150cm)であり、その付近も仮製地形図では「榛莽地」で記されていること、また後述の写真からの考察も含めて考えると、「榛莽地」は一般に高さ5尺(約1.5m)程度以下の矮小な雑木を中心とした柴地であったものと思われる。こうした榛莽地の概念は、仮製地形図と近い年代に作成され、植生記号なども共通のものが多い「正式2万分1地形図」における榛莽地の概念の考察結果(小椋 1996b)とも矛盾しない。
なお、『京都府地誌』では、榛莽という言葉が使われていながら、仮製地形図では「榛莽地」の記号となっていない山がある。たとえば、宇治東方の喜撰山は宇治郡誌には「全山喬木ナシ唯榛莽生ス」とあり、また宇治郡村誌には「満山榛莽ヲ生ス」(池尾村)とある。しかし、仮製地形図では、その山の大部分には「松林〈小〉」の記号が記され、また部分的に「尋常荒地」の記号も見られるが、「榛莽地」の記号は宇治川沿いの一部に見られるだけである。
あるいは、京都府の南部、相楽郡の西山は『京都府地誌』には「満山榛莽ヲ生ス」(相楽郡西村)とあるが、仮製地形図ではそこには「尋常荒地」や「楢林及椚林〈小〉」や「松林〈小〉」の記号が記されている。これらの矛盾の説明としては、『京都府地誌』と仮製地形図の作成年代のある程度の相違により、たとえば「榛莽地」と見えていたところがマツの方が目立つようになるなど、植生が少し変化したことによる可能性などが考えられる。
(b)「尋常荒地」
仮製地形図の京都近郊山地には、比叡山の頂上部などのように、記号表で「尋常荒地」として示されている記号が見られる部分がある(図2)。また、その記号は仮製地形図の山地部にはしばしば見られるため、その記号の概念を明らかにすることは、仮製地形図から明治中期の植生景観を読むための一つの重要な鍵となるように思われる。そこで次に、「尋常荒地」とは、どのような植生の状態を意味するものかを考えてみたい。
まず、仮製地形図の記号表によると、「尋常荒地」以外の荒地としては、「榛莽ヲ有スル荒地」、「篠原」、「砂原」、「石原」がある(図1)。これは、「尋常荒地」が、榛莽を全く、あるいはほとんど含まないものであることや、篠原ではないことを意味している。また、「砂原」や「石原」の記号の一部には「尋常荒地」の記号も見られることから、それは砂原や石原の部分が多いものでもないことがわかる。ただ、これだけでは「尋常荒地」の状態は、まだよくわからない。
「尋常荒地」とは、普通の荒地との意味であろうが、今日、荒地という言葉の概念は必ずしも一様ではない。たとえば、そこに雑草だけしか生えていない場合も考えられるし、また、そこに雑草とともにやや高めの樹木がある場合もあるだろう。あるいは、そこに全く植生のない場合も考えられる。
しかし、仮製地形図においては、先に検討した「榛莽地」と同様に、もっとはっきりとした概念の植生景観を意味している可能性が大きいように思われる。仮製地形図の「尋常荒地」の概念は、その後間もない頃の地形図の「荒地」の概念に近いものであることが考えられるため、上記の『地形測図方式』や『測図学教程』の「荒地」についての解説は、そのことを考える上で大いに参考になる。
たとえば、『地形測図方式』によると、「荒地ハ土地肥瘠ノ如何ニ拘ハラス未タ曾テ開墾セシコト無ク或ハ一旦開墾セシモ久シク人手ヲ下サヽルカ爲メニ雜草漫生シテ荒蕪ヲ爲スノ土地ヲ云フ」とある。また、『測図学教程』でも、荒地は「荒蕪シタル土地ノ總稱ニシテ雜草漫生シ往々榛莽繁茂スルコトアリ、荒地通過ノ難易ハ植物ノ種類及其疎密ニ關ス」とある。これらのことから、仮製地形図の「尋常荒地」も、概して「雑草が漫生している土地」を示している可能性が高いことがわかる。
そのことは、『京都府地誌』中、「半腹以上樹木生セス」と記されている六国山(綴喜郡郷ノ口村)の上部、また五百山(相楽郡法華寺野村)や森田山(相楽郡白栖村)などのように、「樹木生セス」との記述のある山が、仮製地形図では「尋常荒地」となっていることと矛盾しない。また、京都府外になるが、『京都府地誌』などと同じく『皇国地誌』稿本の副本である『兵庫県八部郡地誌』の西代村誌に、「南ハ本村ニ属ス山中樹木無ク唯茅草ヲ生ス」とある神撫山(高取山)が、仮製地形図ではその部分が「尋常荒地」となっていることとも矛盾しない。
「尋常荒地」の植生は、上述の『測図学教程』の荒地の説明から考えると、榛莽をも含むことのある多様な雑草地の景観を示している可能性が高いが、この『兵庫県八部郡地誌』にある神撫山についての記述は、その一つの典型的な景観として、ススキを中心とした草原(ススキ草原)があることを示すものである。そのことは、仮製地形図と近い年代に作成され、植生記号なども共通のものが多い「正式2万分1地形図」における荒地の概念の考察結果(小椋 1996b)からも考えられるところである。
また、その後の地形図で、かつてススキ草原であったところ、あるいは現在もススキ草原であるところが荒地とされていることが一般的であることからも、仮製地形図で「尋常荒地」とされているところの多くはススキ草原である可能性が高いと思われる。しかし、ススキ草原は、あくまでも「尋常荒地」の一つの代表的な植生景観であって、「尋常荒地」には、仮製地形図の記号表にある「草地」、「牧場」、「芦葦」、「篠原」以外の多様な草地的植生地も含まれていることが考えられる。
(c)「草地」
先の考察から、「尋常荒地」は雑草を中心とした草地的植生景観を意味していたものと思われるが、では、仮製地形図に見られる「草地」とはどのようなものを意味したのだろうか。仮製地形図にはその記号が見られるところは少ないが、その概念を明らかにすることは、「尋常荒地」の概念をよりはっきりとさせるためにも意味があるように思われる。
『地形測図法式』では、「草地」について、「故ラニ人手ヲ以テ蒭秣萱茅等ヲ培養スルノ土地ヲ云フ」と説明している。また、『測図学教程』では、「多少人工ヲ加ヘ茅萱、蒭秣等ヲ蕃生セシムル地ヲ云フ」と「草地」について述べている。これらの記述から考えると、仮製地形図において「草地」とは、ススキやチガヤ、またそれらを含む牛馬の餌となる秣(まぐさ)を育てていた人為的影響の強い草地ということになる。
しかし、もしそうであるならば、しばしば火入れを伴い、屋根葺きの材料や秣を採取するなどの目的のために維持されていたススキ草原も「草地」になりそうなものであるが、仮製地形図には、それらは「尋常荒地」として記されている可能性が大きく、「草地」がほとんど見られないのはどのように考えればよいのだろうか。
そのことを考える一つの手がかりとして、奈良の若草山がある。その西斜面には、仮製地形図では数少ない「草地」の記号が見られる。今日では、そこにはシバを中心とした草原(シバ草原)とともに、その中腹以上にはススキの草原も広く見られるが、明治期や大正初期の写真や文献などから考えると、かつてはそのほとんどがシバ地で、ススキは少なかったものと思われる。たとえば、大正4年発行の『大和大観』(山下 1915)には、若草山(嫩草山)は「今ハ一面ノ芝生青氈ヲ敷ケルガ如ク緑樹森厳ナル春日山ト照映シテ一段ノ風致ヲ添フルモノ是ヲ嫩草山トナス」と説明されている。
あるいは、時代が少し下るが、明治32年測量の5万分の1の地形図に「長年の放牧で全山シバ・ネザサに被われ、その草原景観が美しいということで国立公園に編入された」(沼田 1991)という島根県の三瓶山が、付近では珍しく「荒地」ではなく「草地」となっているようなことなどから考えても、シバ草原が仮製地形図やその後の地形図において、「草地」の一つの典型的な景観であったものと考えられる。
なお、仮製地形図における森林の大小の表現などにも見られるように、地形図の記号はしばしば写実的要素を含んで表現される傾向がある。そのことは、『地形測図法式』の「沙地ニ於ケル荒地ハ現况ニ従テ描キ草ヲ生スル部ニハ荒地ノ記號ヲ配置シ及ヒ沙ヲ露出スル部ニハ小點ヲ散布シ沙堆ハ斜面ノ緩急ニ從ヒ及ヒ光輝側ト暗影側トニ應シ多少小點ヲ密集セシメ淡濃ノ影ヲ現シ之ヲ示ス」というような部分にもよく示されている。
そのようなことから考えても、「草地」の植生は概して「尋常荒地」のそれに比べると低く、また比較的均質なものであった可能性が大きいように思われる。そして、「草地」と「尋常荒地」は、同じ草原でも明らかに景観の異なるものであったものと考えられる。それは仮製地形図の軍用図的側面から考えると、通過が困難な場合もある「尋常荒地」に対して、「草地」は常に通過が極めて容易であるため、両者が区別される必要があったということかもしれない。
(3)同時代の写真との比較
写真は幕末に日本に入り、仮製地形図がつくられた頃には既に存在していたが、その当時に山地部までも明瞭に写したもので今日見ることのできるものは決して多くはない。しかし、数は少なくても、仮製地形図で測図された山地部をはっきりと見ることのできる同時代の写真があれば、仮製地形図において、ある記号が記された場所が、具体的にどのような状態であったのかを考えることができる。ここでは琵琶湖疏水関係の写真を中心にその例を少し示してみたい。
明治の仮製地形図がつくられたのとほぼ同じ頃、当時の大事業であった琵琶湖疏水の工事が行われていた。明治18年に着工され、明治23年4月に完成したその工事の過程や完成間もない頃の様子を撮影した写真が、いくらか今日まで残されている。
琵琶湖疏水は、数か所で山を貫き、その他の部分も山裾や山の中腹に水路を築く部分がほとんどであったため、それらの写真には付近の山地部がはっきりと写されているものも多い。なお、ここに取り上げた写真の大部分は、京都府立総合資料館所蔵の『琵琶湖疏水工事写真帖』に収められているものである。その写真帖には、琵琶湖疏水工事関係以外の写真も少なくない。
(a)第一竪坑付近
第一竪坑は、大津から山科に抜ける第一隧道を速やかに完成させること、また通気や採光を目的として、第一隧道の真上にあたる滋賀県藤尾村字金堀谷の山の谷間に掘られたものである。そこでの操業は、明治18年8月より明治22年1月まで行われていた(田邊 1920)。
写真1は、その頃の第一竪坑付近の写真である。写真には落葉している樹木も多いように見えることから、それは冬季に撮影されたものと思われる。写真右手の山地の大部分は、仮製地形図では「尋常荒地」の記号となっているところである。写真からは、そこには全般になんらかの植生があるようには見えるが、山の斜面の小さな歩道の見え方などから考えると、植生高は極めて低いこと、また部分的には裸地もあるように見える。ただ、その部分は、先の文献からの考察などを含めて考えると、夏季などにはもっと植生高の高い雑草地であるが、堆肥等への利用のために、それが刈り取られた後の状態である可能性もあるように見える。
一方、写真の左手の山地は、仮製地形図では雑樹林〈小〉の記号の部分である。地形図をもとにしたモデルとの比較から(小椋 1996a)、写真には10m前後の高さと思われるマツなどの高木も見られるが、2m前後程度かと思われる落葉樹を中心とした低木の植生も広く見えているものと考えられる。
(b)山科運河付近の山地
琵琶湖疏水のうち、山科運河は明治20年に着工され、明治22年12月に完成している(京都市電気局 1939)。写真2は、琵琶湖疏水工事の設計と施行を担当した田邊朔郎が、その著書『水力』(田邊 1896)などに載せているものである。それは、工事の法面の状況などから見ると、山科運河完成の直前または直後のもので、仮製地形図の測図の時期にかなり近いものと思われる。ただ、その写真からは、当時の山地部の植生について詳しく知ることはできない。一方、写真2と比較的近い視点から撮影された写真3(京都市水道局所蔵)は、疏水の工事法面や近くの樹林の変化などから見ると、山科運河完成後少なくとも数年を経た頃のものと考えられる。
それらの写真に見える山地部は、仮製地形図では「松林〈小〉」となっているところであるが、写真3ではその付近の様子を細かく見ることができる。すなわち、その左方手前の山地の最下部には、疏水の水面幅(22尺〈約6.6m〉)(京都市電気局 1940)から考えると、高いものは6~7m前後かと思われる木立もあるが、その中腹のあたりには樹高のかなり低い低木らしき植生が広く見られ、また尾根付近には裸地もかなりあることがわかる。
また、その先の山地には左右2か所に森林が広く皆伐されたばかりのような部分があり、それ以外のところは比較的均質な森林で覆われているように見える。その森林の樹高は、詳しい地形図をもとにしたモデルとの比較から考えると、尾根部ではせいぜい3m前後であり、その他の部分も写真から見る限り、それとさほど変わらないように見える。
写真2では、その山地の稜線の形状が、植生のない場合のモデル(小椋 1996a)や写真3のその部分の形状とよく似ていることから、その尾根部の植生高がかなり均一だったことがわかる。また、写真3よりも稜線がシャープに見えることなどから、その付近の山地の樹高は、写真3で見られるものよりもさらに低いものと考えられる。
(c)第三隧道東口付近
第三隧道は明治20年3月に着工され、明治22年3月に落成している(京都市電気局 1939)。写真4は、第三隧道落成間もない頃に撮影されたと見られるものである。
仮製地形図では、その付近の山地には、「松林〈小〉」とともに「土沙崩落山」の記号が見られる(図3)。写真では、一部に数m程度と思われる単木や小さな木立も見られるが、山地の大部分に見られる植生はかなり低く、かつまばらであり、全体的には禿山の景観を呈している。
なお、『地形測図法式』の赭山(禿山)についての下記の説明は、崩土や流土の記号からなる「土沙崩落山」の記号の概念を考える上で大いに参考になるものである。
「土質輕鬆ニシテ植物生長セス常ニ崩潰シテ止マサル赭山即チ中國ニ於テ屡ハ見ル所ノ風化セル花崗岩ノ滓渣ヨリ成リ矮松ノ外他ニ植物ヲ存セサル崩潰地ノ如キハ斜面ノ上方ニ軽ク崩土ヲ描テ其下方ニ流土ヲ現シ或ハ全ク流土ニ由テ示スノ適當ナルコト屡ハ之アリ然ルトキハ斜面ノ諸部ニ不規形ナル斷續線ヲ輕ク且疎ニ最大傾斜ノ方向ニ描テ小雨裂ヲ擬シ其間ニ小點ヲ散布シテ流土ノ状ヲ現シ之ヲ示ス」(陸地測量部 1900)
(d)第六隧道南口付近
第六隧道は明治20年10月に着工され、翌明治21年8月に竣工している(田邊 1920)。写真5は、その竣工後さほど時を経ていない頃の様子を写したもののように見える。
永観堂(禅林寺)のすぐ裏手にあたるその山地の部分は、仮製地形図では「松林〈大〉」の記号の見えるところである。写真では、隧道の内径(8尺〈約2.4m〉)(京都市電気局 1940)や詳しい地形図をもとに作成したモデルとの比較(小椋 1996a)から考えると、20m前後もある高木の木々がその付近に見える。また、そこにはマツばかりではなく、広葉樹と思われるさまざまな樹木も見られる。
(e)相谷堰堤付近
『琵琶湖疏水工事写真帖』には、禿山の砂防工事の写真など、琵琶湖疏水工事関係以外にもかつての山の姿を知る上で貴重な写真が含まれている。ただ、その多くは場所が特定できないために、資料としては使いにくいが、京都府相楽郡山城町の相谷堰堤を撮影したものは、その場所を特定することのできた数少ないものである(写真6)。一方、写真7は現在のその付近の様子である。その堰堤は、20年ほど前まで高木の森林で覆われていたが、京都府による整備事業により、全体が再びよく見える状態となった。
『山城町史 本文編』(上田監修 1987)によると明治8年か9年に完成した相谷堰堤は、木津川支流の不動川の砂防を目的として造られたもので、当時としてはかなり大規模なものであった。写真6には、その堰堤上に株を広げたススキが多く見えることから、それは堰堤が築かれてから少なくとも10年程度を経た頃に撮影されたものと思われる。そして、その推測は、その写真が琵琶湖疏水工事の写真とともに収められていることとも矛盾するものではない。
この付近は、仮製地形図では明治18年に測図されており、写真6の背後に見える山地の部分は、ほぼすべて「松林〈小〉」の記号が記されているところである。ただ、その近くには「土沙崩落山」の記号の見られる部分も少なくない(図4)。一方、写真6の左方の山地には、地形図をもとにした作図から考えると、10m程度と思われるアカマツらしき樹木もわずかに見られるが、ほとんどは2~3m程度以下のマツやその他の植生のように見える。また、右方の山地には、目立った樹木は全くなく、尾根部を中心にかなり裸地の部分が多く、ハゲ山的な景観を呈している。
一方、写真8も『琵琶湖疏水工事写真帖』に収められているものの一つであり、そこに収められている他の年代のわかる写真と同様、明治中期に撮影された可能性が大きいと思われるものである。そこには人工的なものは何も見られないが、写真上部の中央から左方にかすかに見える山影が、相谷堰堤付近の山上から見える生駒の山なみと極めてよく似ていること、また、写真の視点を相谷堰堤北東約700mの山の尾根上と考えれば、写真に見える地形の状態が現況などと比較的よく一致することなどから、写真8はそのあたりから撮影されたものと考えられる。
不動川流域の山地の様子が広く写されているその写真には、谷筋にやや大きな樹木が密生しているところも見られるが、他にはさほど大きな樹木はなく、山の尾根部を中心に草木が全く、あるいはほとんどないようなところが広く見られる。仮製地形図では、その付近の一部に「土沙崩落山」の記号の見られる部分もあるが、その大部分は「松林〈小〉」の記号のみが見られるところである。このことからも、仮製地形図で「松林〈小〉」の記号の部分には、しばしば裸地のあるところもあったことが考えられる。
また、写真9は、『琵琶湖疏水工事写真帖』の中で、写真6と写真8との間に収められている3枚の写真のうちの1枚であり、相谷堰堤付近における禿山の砂防工事の様子を写した可能性が大きいと思われるものである。たとえ、それが別の場所であったとしても、その写真は、当時の最も荒廃の激しい禿山の様子をよく示すものである。
なお、『琵琶湖疏水工事写真帖』に収められている禿山の写真には、禿山付近の植生の状態がかなり詳しく見えるものもある。それによると、禿山付近の植生は、矮生のマツが中心であったが、そこには他の樹高の低い常緑や落葉の雑木、またススキやササなどが混生していることが多かったようである。
4 仮製地形図の植生記号概念のまとめ
以上の考察から、いくつかの場所における明治期の具体的な植生景観とともに、仮製地形図の植生記号についての不明部分、また、その植生図的側面の信頼性などが、かなり明らかになったように思われる。それらをまとめると、次のようになる。
1)比叡山付近などに見られる仮製地形図の記号表にはない植生記号は、矮小な雑木を中心とした榛莽地を示しており、その高さはおおよそ5尺(約1.5m)程度までのものであったものと考えられる。
2)仮製地形図で「尋常荒地」の記号の部分は、人的管理の度合いの低い多様な雑草地であり、そこには矮小な樹木を混生することや裸地の見られることも珍しくなかったものと考えられる。ススキ草原は、その一つの代表的な植生景観であったものと思われる。
3)仮製地形図で「草地」の記号の部分は、人的管理の度合いの高い、概して均質かつ植生高のかなり低い草地と考えられる。シバ草原は、その一つの典型的な植生景観であったものと思われる。
4) 「松林〈小〉」は、おおよそ3間(約5.4m)または5m程度までのマツを主体とした林であったが、その大部分は1間半(約2.7m)程度以下であった。また、そこには裸地などが見られることも珍しくなく、禿山的な景観を呈していたところもあった。また、そこには他の樹木やススキなどが混生していることも多かったものと考えられる。特に、その比較的高木の林には、他の樹種が含まれていることが普通であった。
5)「松林〈大〉」は、おおよそ3間(約5.4m)または5m以上のマツを主体とした林で、そこには他の樹種も含まれていることが普通であった。
6)松林以外の森林においても、おおよそ3間(約5.4m)または5m以上の森林は「某林〈大〉」とされ、それよりも低いものは「某林〈小〉」とされたものと考えられる。
7)図中で流土記号が多く記されているところは、たとえそこに「松林〈小〉」などの記号がある程度記されていても、概して植生が少なく禿山的景観を呈しているところである。
8)仮製地形図の植生の記載は、概して正確なものであるが、山地部の1ha程度以下の森林などは、省略されることが普通であった。
このような考察結果を踏まえることにより、仮製地形図から、広く明治中期における近畿地方の里山の植生景観をより詳しくとらえることができる。次に、具体的な例をいくつか示してみたい。
5 仮製地形図に見る明治中期における京都府南部の植生景観
ここでは、以上の仮製地形図における植生記号の概念の考察を踏まえ、仮製地形図から当時の京都府南部の植生図を部分的に作成し、それぞれについて簡単に説明をしたい。ここで選んだのは、 地図1で示した縦長長方形の九つの区域である。それらは仮製地形図の測図区域における京都府内の部分であるが、①(地図2)と⑧(地図9)については一部他府県の部分も含んでいる。
なお、今回作成した植生図の凡例は図5の左下の通りである。この凡例では、先に植生記号概念の検討の際に「尋常荒地」としたものを「荒地」、「榛莽地」としたものを矮生雑木地、また森林の樹種の表記をカタカナとし、「松林〈大〉」などとしていたものを、マツ林〈大〉などとした。同凡例は、⑤(地図6)、⑧(地図9)でも見ることができる。
①比叡山から大文字山付近
区域概要 図の北東端が比叡山の山頂近く、南西端が鹿谷町でその東やや北方約1kmのところに大文字山がある。また図の西側には、北から高野村、修学院村、一乗寺村、白川村、浄土寺町などの名が見える。また、図の中央より少し東方に山中村がある。この図全体の位置は、現在の京都市北東部にあたる。山中村付近など、図の東方の一部は滋賀県に属する。
植生概要 この区域の植生としては、マツ林〈小〉が図の大部分を占める。山麓や山中の村や町に近いところの山地部では、マツ林〈小〉のところが特に多いように見える。ただ、山麓部の一部には、修学院村の東方や浄土寺村の東方など、5か所にマツ林〈大〉が見られるが、その面積はいずれもさほど大きくはない。それらの林は、修学院離宮の裏山や銀閣寺や法然院の裏山などで、修学院離宮裏山の他は、いずれも社寺林および明治初期に上地された旧社寺林である。また、図の北西、高野村東方の山裾にはナラ、クヌギ林〈小〉が少し見られる。
一方、比叡山には、少し村から離れたところを中心に矮生雑木地がかなり広範囲に見られる。また、他にも比較的広い面積の矮生雑木地が、山中村の南側や図の南東端付近にも見られる。小面積の矮生雑木地は、他にも10か所近く見られる。
比叡山の最上部はススキ草原の可能性が大きいと思われる荒地となっている。同様な荒地は、図の右下方に比較的広く見られる。また小面積のものとしては、修学院村の北方、山中村の北東から東部にかけてのところ、鹿ヶ谷の北東に計数か所見られる。
比叡山中腹の尾根筋の一部(図の中央付近からその北東)には長く禿山の見えるところがある。その近くには、他にも数か所の小面積の禿山がある。また、小面積の禿山は、図の南東部にも数か所見ることができる。
②鞍馬から岩倉西部付近
区域概要 図の北の端に近いところに鞍馬寺、図の南東端のあたりに岩倉村がある。図の中央のあたりを北から南に至る谷部には、北から鞍馬村、二ノ瀬村、野中村、市原村の名が見える。また、名は見えないが、図の最南部中央のあたりは幡枝村、図の北東部に農地の広がる部分は静原村の一部である。この図全体の位置は、現在の京都市北部にあたる。
植生概要 この区域の植生は、中部から南ではマツ林〈小〉が図の大部分を占める。北部でも山の尾根筋のあたりなどにマツ林〈小〉の見えるところがある。そのうち二ノ瀬村と静原村の間の山地では、マツ林〈小〉の割合が大きく、静原村の北側の山でもその割合の大きいところがある。マツ林〈大〉は、岩倉村の西方に1か所見られるだけであり、その面積はさほど大きなものではない。その林は、実相院や大雲寺などの寺社の裏山で、それらの境内林と明治初期に上地された旧社寺林である。
一方、図の北では鞍馬村の周辺などに矮生雑木地がかなり広範囲に見られる。鞍馬村では、村のすぐ近くはすべて矮生雑木地であり、二ノ瀬村、野中村、静原村でも村の近くに矮生雑木地の見られるところが多い。
鞍馬寺の近くでは上記のマツ林〈小〉の他に雑木林〈大〉、スギ林〈大〉、スギ林〈小〉の見られるところがある。スギ林〈大〉とスギ林〈小〉は、他にも数か所北部の谷部に小面積のものが見られる。
市原村の南東には、ススキ草原の可能性が大きいと思われる荒地が少し見られるところがある。また、比較的小面積の禿山は、図の北部から南部にかけて十数か所見ることができる。なお、ここでいう禿山には、土砂崩落地も含めた(以下同様)。
野中村の北西の山裾には、ナラ、クヌギ林〈小〉の見られるところがある。また、市原村には川沿いに帯状の竹林が見られるところがある。
③宇多野周辺
区域概要 図の南西に広沢池があり、その東方に中野村、宇多野村、御室村、花園村、等持院村などの名が見える。御室村の南には双ケ丘がある。図の北西にある池は沢ノ池、図の東方の山中に少し農地の見られるところは原谷である。この図全体の位置は、現在の京都市北西部にあたる。
植生概要 この区域の山地の植生は、マツ林〈小〉が大部分を占める。マツ林〈小〉とは異なる植生としては、双ケ丘と宇多野村北東の山麓部に少しマツ林〈大〉が見える。それらは、仁和寺の旧寺領で明治初期に上地されたところである。なお、双ケ丘の植生については、『京都府地誌』では上述のように「壱丈弐尺以下ノ杉及ヒ雑木ヲ生ス」と記されており、仮製地形図の植生記載とは一致していない。
一方、図の中部から北部にかけて数haから10数haの矮生雑木地と荒地がそれぞれ4か所に散在している。また、沢ノ池の南方や北方などには、山地の尾根などの一部に禿山の見られるところが10か所余りある。原谷のすぐ北側には10ha近いナラ、クヌギ林〈小〉が見られる。ナラ、クヌギ林〈小〉は、広沢池の南東、宇多野村の北西、等持院村東部にも見られる。それらは平地や山裾のかなり平坦なところにあるもので、面積は2~3haにも満たない小さなものが多い。
図の南部の平地部には、点々と竹林が見える。その多くは竹林〈小〉であるが、広沢池の南方と東方、常磐谷村の南西には竹林〈大〉が見える。それらの竹林の面積は10ha程度までのものである。また、図の北東部の山地にも3haほどの竹林〈小〉がある。なお、広沢池東方の丘陵部や平地部には、茶畑や桑畑が所々に見られる。それらは「農地・その他」に含まれる。
④地蔵山周辺
区域概要 この区域の南方には地蔵山の名が見える。そこから南南東に延びる稜線は、京都市周辺の最高峰である愛宕山に連なる。図の北部と東部の大部分は北桑田郡の南部にあたり、細野村、神吉村の一部である。北部中央付近に見える標高730m足らずの山は、今日では三頭山と呼ばれている山である。図のやや西南方に見える農地・村落は、南側が原村、北側が越畑村で葛野郡の一部である。この図全体の位置は、現在の亀岡市の北東方にあたる。
植生概要 この区域の植生で最大の面積を占めるのは矮生雑木地である。それは、図の東部の大部分を占める。矮生雑木地は図の西部でも三頭山の周辺や図の南西端などに見られるところがある。矮生雑木地に次いで多くの面積を占めるのはマツ林〈小〉である。マツ林〈小〉は図の西方の大部分を占める。また、図の東部でも北端付近にややまとまったマツ林〈小〉がある。越畑村の東方には、マツとナラ、クヌギの林〈小〉およびマツと雑木の林〈小〉がややまとまって見える。マツと雑木の林〈小〉は、図の北東にもわずかにある。なお、マツとナラ、クヌギの林〈小〉およびマツと雑木の林〈小〉は、仮製地形図の記号表にはないものであるが、この区域付近ではマツ林〈小〉とナラ、クヌギ林〈小〉、マツ林〈小〉と雑木林〈小〉の表記を融合させる形で組み合わされて使われている。
図の東側の北部と南部には、ややまとまった雑木林〈小〉が見られる。雑木林〈小〉は越畑村にも小さなものが3か所帯状に見られる。越畑村の北東には10ha余りの面積のススキ草原と思われる荒地がある。図の北部や越畑村、原村の東方には、谷沿いにスギ林〈小〉の見られるところがある。また、地蔵山の東方、龍嶽の上部付近には小面積の禿山が3か所ある。
⑤氷所周辺
区域概要 この区域は農地・村落が多く見えるところであり、南部には西方から観音寺村、屋賀村、馬路村などの名が見える。そのやや北東には旭村、図の中央より少し北西のところに氷所村、さらにその北西に日置村の名が見える。また、図の北東端に近いところにある村は神吉村である。この図全体の位置は、現在の亀岡市北方にあたり、図の南東部は亀岡市、その他は八木町に属する。
植生概要 この区域の山地の植生は、マツ林〈小〉がその大部分を占める。ただし、図の南部や北部にはススキ草原の可能性が大きい荒地が多く見られるところがある。そのうち、南方の村落近くにある小さな丘陵の大部分は荒地となっており、マツ林〈小〉はわずかしかない。荒地は、その東方の山地や図の北東の神吉村に近いところにも見られる。神吉村南方のものと図の南東端に近いところの荒地は、25ha以上の比較的大面積のものである。
一方、マツ林〈大〉は図の北東端と北西端に近いところに2か所見える。そのうち、図の北東端に近いところ、神吉村の北側にある林は、図に見えているところだけでも20ha近くがある。
図の南東端に近いところ、馬路村の東方の山麓部にはやや広いナラ、クヌギ林〈小〉が見える。また、氷所村東方の神社の近くには雑木林〈小〉がわずかに見える。
また、図の中部から北の山地には数多くの禿山が見える。それらは比較的標高の高いところに見られるものが多い。
⑥大原野西部
区域概要 この区域も東部に農地・村落が多く見えるところがあり、図の北東端に近いところに沓掛村、その南に大原野村、小塩村などがある。この図全体の位置は、現在の京都市の南西部、洛西ニュータウンの西方にあたる区域である。
植生概要 他の区域に比べるとやや複雑な植生のパターンが見られるこの区域で、最も大きな割合を占める植生はマツ林〈小〉である。マツ林〈小〉は、図の北から南まで山地・丘陵部の大部分を占めるところが多い。なお、マツ林〈大〉は、里に近いところを中心に計9か所に見られる。その中には1ha余りの小さなものも多いが、大原野村北西には約10haと約30haのマツ林〈大〉もある。また、その南西にもやや広い面積のマツ林〈大〉がある。それらの比較的大きな面積のマツ林〈大〉は、社寺林および明治初期に上地された旧社寺林である。
マツ林〈小〉に次いで山地で大きな割合を占める植生は、矮生雑木地である。矮生雑木地は里からやや離れたところに多く、特にまとまった面積のものは大原野村の北西と西方、それぞれ約2キロ余りのところ、また小塩村西方に2か所見られる。他にススキ草原の可能性が大きいと思われる荒地も比較的多く、大原野村西方には、かなりまとまった面積の荒地がある。
大原野村の西方には、やや広い面積の雑木林〈小〉が2か所ある。また、大原野村の南西(小塩村の北西)の山地には、ナラ、クヌギ林〈小〉のやや大きなものが見られる。ナラ、クヌギ林〈小〉は、沓掛村の北西や南方の山裾などにも見られる。
図の北部には、山地の上部を中心に小面積の禿山が十数か所見られる。
一方、図の東部には竹林〈小〉が多く見られる。それらは山裾で農地と森林に挟まれるような形で存在しているものが多く、中には10haを超える比較的大きなものもいくつかある。
⑦宇治東部
区域概要 図の西の中央付近が宇治町で、宇治川がその南東方から北西に流れている。図の北東には莵道村の名が見える。また、図の中央近くの山中には志津川村、南西の山中には白川村がある。この図全体の位置は、現在の宇治市東部にあたる。
植生概要 この区域の植生の大部分は、マツ林〈小〉が占める。山地でマツ林〈小〉に次いで大きな面積を占めるのは矮生雑木地で、図の南東端の宇治川両岸、図の北東端近く、白川村の北部などに見られる。そのうち、宇治川両岸のものは、図に見えているところだけでも100haに近い面積がある。また、志津川村の東方から北東に2か所のススキ草原の可能性が大きいと思われる荒地が見られる。そのうち、志津川村からより遠いところのものは、図に見えている部分だけでも約20haある。
山地の一部には、比較的標高の高いところや尾根部に禿山の見られるところがある。それは、特に図の北部や南西部の山地に多く、中には10haを超える面積のものもある。
図の西部の村や町の近くでは、竹林〈大〉および竹林〈小〉が10か所余り見える。なお、この区域の「農地・その他」の部分で茶畑の割合が大きいところが、志津川村周辺、白川村北部、莵道村周辺などに見られる。
⑧田辺西部
区域概要 図の北部に大住村、図の東部に薪村、田辺村、また図の中央よりも少し南西に甘南備山などの地名が見られる。また、凡例に隠れてほとんど見えないが、図の北東部には木津川が流れている。この図の大部分は、現在の京田辺市の西部にあたるところである。また、図の南西端付近は大阪府に属する。
植生概要 この区域の山地の植生としては、マツ林〈小〉が図の大部分を占める。一方、山地の上部や尾根筋などには禿山の見られるところが少なくない。特に田辺村のすぐ西方の山地などには、面積が十数haの規模の禿山が見られるところがある。
その他の植生としては、大住村の南西から西方にやや広い面積のススキ草原と思われる荒地、数ha規模のナラ、クヌギ林〈小〉、雑木林〈大〉、また1ha余りの竹林〈小〉が見られる。小さな竹林〈小〉は、田辺村の南西にも見られる。また、そのさらに南西1キロほどのところには数haのマツ林〈大〉が1か所ある。
一方、図には山地のふもとだけではなく、傾斜のきつい山地の一部にも農地が見られるところがある。京都府側では、傾斜のきつい山地の農地利用としては茶畑が多いが、大阪府側では陸田が大部分を占める。
⑨神童子周辺
区域概要 この図の区域は京都府の最南部に近いところで、図の西方北より綺田、平尾村、椿井村、上狛村などの地名が見える。また、図の中央部よりも少し南方の山中には神童子村がある。また、図の南東端に近いところには法華寺野村があり、その北から西方に木津川が流れる。この区域の北部の一部は、現在の綴喜郡井手町、その他の部分は木津川市山城に属する。
植生概要 この区域の山地部の植生は、北部ではマツ林〈小〉が図の大部分を占めるが、南部ではナラ、クヌギ林〈小〉が最も大きな割合を占める。ただ、南部でも山地の下部ではマツ林〈小〉、あるいはマツ林〈大〉の見られるところが多い。また、南部の山地の下部などにススキ草原と思われる荒地の見られるところがある。そのうち、図の東方、木津川の北側にあるものは山地の上部までおよび広大である。この荒地は、この図の東方部にも広がり、その全体の面積はこの図の部分のほぼ2倍である。
一方、図の中部から北部にかけての山地の一部には、尾根筋などに禿山が数多く見られる。その多くは1haから数haの比較的小規模のものであるが、図の北部、やや西方には、やや大きなものが見えるところがある。また、図の北西部には、比較的小面積の竹林〈小〉の見えるところが2か所ある。
また、図では、その南西部を中心に山地でも山麓部などが、陸田、畑、茶畑等の農地となっているところが少なくない。北西の山麓部には、10ha以上の面積の菓園(果樹園)も見られる。
6 明治期における京都府南部の植生景観の背景
以上で見てきたように、明治中期における京都府南部の植生景観は、今日とは大きく異なっていたが、その背景にはどのようなことがあったのだろうか。また、明治期は植生景観が江戸時代の頃の状態から大きく変化し始める時期と考えられるが、その変化の背景には何があったのだろうか。そうしたことについて、ここでは行政文書などの文献類、また明治期から成長を始めた樹木の樹幹解析を通して考えてみたい。
(1)『京都府百年の年表』とその典拠文献からの考察
『京都府百年の年表』(京都府立総合資料館編 1970~1972)は、京都府政百年記念事業の一環としてまとめられたもので、政治・行政編、商工編、農林水産編、教育編、美術工芸編など計10巻から成る。それは、行政文書などをもとにつくられたもので、それにより京都府における明治初期以降約百年の変化の概要を知ることができる。
ここでは、『京都府百年の年表3 農林水産編』(京都府立総合資料館編 1970)の明治期の年表とその典拠文献から、植生景観の変化の背景について考えてみたい。これについての詳しい考察は別途まとめているが(小椋 2003)下記はその概要である。
凡例 | ●:山地・山林保護 ◆:官林 ▲:植林 ★:肥料 ▽:その他 |
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明治4年 | ● 2・- 山地開拓につき制限。【布達46号、府庁文書 明4-9、府山林誌】 |
明治5年 | ● 2・25〔4・2〕村持山・私有林の濫伐を禁じ、小樹1反歩以上の洗伐は許可を要すると布達。【布達50号、府庁文書 明5-5、府山林誌】 |
明治6年 | ● 9・- オランダ人技師デレーケ来日。《日本》 |
明治7年 | ● 3・2 府、山林野の火入れの都度、戸長に届出ることを達す。【府令99号】 |
明治9年 | この年 ◆ 府、官林禁伐の制公布。【府山林誌】 |
明治11年 | ● 2・- 府・山林保護および入火取締等につき布達。【府山林誌】 ◆ 2・- 内務省、官林保護について達し、秣草採取の許可・鑑札なく官林へ立入ることを禁止。《日本》 |
明治12年 | ▲ 2・6 人民所有地等荒地の開墾を奨励。【布達43号、府山林誌】 |
明治13年 | ● 1・19 内務卿伊藤博文、淀川流域諸山の土砂防止のために立木伐採・採草・石材伐出・開墾等作業の取締りを本府に達す。1・28府、管内に取締りを移牒。【府庁文書明13-3、明16-58】 ● 7・12 府、人民所有山および茅野秣場等火入の際は事前に所轄警察署・戸長役場に届出ることを重ねて達す。【府庁文書 明13-3、府山林誌】 ● 7・13 淀川流域民有地の立木伐採は1反歩50本以内でも伐木願を差出すよう達す。【布達290号、府庁文書 明13-3】 ● 12・15 郡区役所にあて濫伐・野焼きを禁じ閑地の造林を奨励。【布達47号、大阪日報明14・1・8】 ● 12・- 民有山林の濫伐差止を厳達。【布達第47号】 |
明治15年 | ● 2・8 太政官布達第3号をもって民有林のうち国土保安に関係ある箇所の伐木を禁止(3月民有保安林の取調べを布達)。【布達3、36号】 ● 9・6 淀川出張土木局、淀川流域草刈場は明文の有無にかかわらず草刈・採草を禁止。【府庁文書 明16-58】 この年 ▽ 府、民・官林反別調査。【府庁文書 明16-58】 |
明治16年 | ● 3・- 府・山林火入規則制定(違背者は違警罪の適用を受ける)。【府山林誌】 |
明治17年 | ● 7・7 淀川流域に係る諸山のうち砂害のない個所に限り諸作業差許し。【布達甲60号】 ● 11・22 共有山林保護例制定。【布達甲120号】 |
明治18年 | ● 3・- 府、社寺境内木竹伐採心得を布達。【府山林誌】 ● 8・- 府、共有山林保護規約模範をつくり各戸長役場に配布。【府山林誌】 |
明治19年 | ● 10・11 内務省、淀川流域直轄砂防工事につき竣成地の立木伐採・土石堀取・採草放牧などの禁止を本府に訓令。 ● 11・4 府、淀川流域内諸山において禁止事項を達す。【府令42号】 |
明治21年 | ● 3・- 山野火入取締規則公布。《日本》 ● 3・29 山野火入取締規則を制定(明19・3達項2号を廃止)。【布令33号】 ★ 11・2 東京人造肥料会社、過燐酸石灰肥料の生産開始。《日本》 |
明治23年 | この年 ▲ 天田郡細見村の長沢又三郎、スギ・ヒノキ5万本を植栽。明39の経済変動に際し全資産を造林に傾注し、明42には造林地130町歩を所有。【府山林誌】 |
明治27年 | この年 ▲ 熊野郡農会、スギ・ヒノキの苗仕立場4カ所を設け、その一年苗を町村農会へ売却配布を決議。また共有地である草刈場・柴刈場の一部に5カ年計画で造林。【府農会報39】 |
明治28年 | ▲ 3・26 与謝郡筒川村、植樹奨励規程を定める。【府農会報76】 この年 ▲ 竹野郡吉野村大字芋野部落、水源涵養・基本財産造成を目的に10カ年計画でスギ・ヒノキの造林を開始。【府農会報76】 ▲ 熊野郡農会、スギ・ヒノキ苗仕立場を設置。【熊野郡誌】 |
明治29年 | ▲ 1・- 熊野郡農会、林業奨励規程を定める。【府農会報47】 ● 2・17 南桑田郡篠村の村民130人、共有林の下草伐採禁止に怒り村役場に押しかけ警官の説諭で解散。【日出2・19】 この年 ▲ 北桑田郡弓削村の梶谷寛二郎、この年から明42までスギ・ヒノキを35万本植栽し植林面積80町歩に上る。【府山林誌】 ★ 鈴木商店、初めて硫酸アンモニア5t輸入。《日本》 |
明治30年 | ● 3・30 砂防法公布。《日本》 ● 4・12 森林法公布(明31・1・1施行)。《日本》 ★ 6・- 南桑田郡農会のこの年半年間の肥料の共同購入は総計9200円37銭。【府農会報62】 ● 8・- 府、従来の禁伐林を保安林に編入。【府誌 上、府山林誌】 ● 12・11 愛宕郡静市野村延日の民有山林1反6畝歩を国土保安のため伐木停止林に編入。【府令214号】 ● 12・11 民有林のうち伐木停止林に編入するものは間伐・下柴草刈取等すべて許可制となる。【府令214号、府庁文書明30-56】 この年 ▲ 北桑田郡平屋村野添の磯部清吉、明42までスギ・ヒノキ80町歩を造林。【府山林誌】 ◆ 従来地方庁の管轄下におかれた官有林野はこの年末限り農商務省山林局直轄となる。 《日本》 |
明治31年 | ● 11・4 与謝郡筒川村、山林保護の目的により区有山林の15カ年間の松樹伐採を禁止。【府農会報76】 |
明治33年 | ● 8・3 淀川流域内山林作業取締規則を制定。【府令71号】 |
明治37年 | ▲ 1・- 北桑田郡会、郡有財産の増殖・植林事業奨励のため郡有林設置規程を制定。【北桑田郡誌 近代篇】 ▲ 2・1 天田郡会、模範林および樹苗圃設置規程を制定。【府庁文書 明37-75】 ▲ 7・12 樹苗圃奨励金交付規則制定。(郡または郡農会の設置する樹苗圃に奨励金を交付、樹苗圃の設置期間3カ年以上継続見込のものを対象に、とくにスギ・ヒノキ・カラマツを優遇)。【告示289号】 |
明治39年 | ▲1・11 公有林野整理規程を定め、公有林野の造林を奨励。【訓令1号】 ▲ 3・- 府叡山模範林苗圃を愛宕郡修学院村に創設(面積1町3反7畝)。【府写真帖】 この年 ▲ 府、11カ年計画で府模範林植栽事業に着手。【府統計書 大7、府山林誌】 |
明治40年 | ▲ 4・3 改正森林法公布(民有林を公有林に準じて国の林業経営方針に従わせる方向で、大山林所有者、伐出のために山林使用権をもつ木材商人の林業経営に便するための大改正。明41・1・1施行)。《日本》 この年 ▲ 綴喜郡宇治田原村、公有山野植林造成保護規程を制定。【府山林誌】 ▲ 農商務省山林局予算に植樹奨励費新設。《日本》 |
明治41年 | ● 4・- 府、森林の火入れに一定の方針を定め各警察署に通牒。【府山林誌】 |
明治42年 | ★ 1・23 府立農林学校長鏡保之助、府山林会総会において「まぐさ山整理に就て」と題し講演(金肥施用・木材価格高騰により秣山の存在は現状にあわず、不必要であるとし、秣山の柴草に代りレンゲ栽培を奨励)。【府農会報199】 ▲ 12・- 竹野郡、溝谷村等楽寺3町歩をスギ・ヒノキの郡模範林とし、以後毎年3町歩ずつ模範林を定める。【竹野郡誌】 この年 ▲ 加佐郡、造林奨励規程を制定(造林事業費の7~10%を補助)。【府山林誌】 ▲ 北桑田郡細野村の西谷市太郎、所有山林130町歩のうち70町歩にスギ・ヒノキ30万本を植栽。【府山林誌】 ▲ 府山林会、樹苗品評会開催(以後毎年開かれ樹苗の改良発達をはかる)。【府誌 上】 |
明治43年 | ▲6・17 公有林野造林補助規則を制定(大3・7・3規則改定)。【府令42号】 ▲ 3・26 公有林野造林奨励規則公布(市町村有または町村組合有となった林野に優先的に適用され、部落有林野の整理統一を側面から推進)。《日本》 ▲ 10・25 公有林野中の慣行採草地査定・部落有林野の市町村に統一などを訓令。【訓令48号】 |
明治44年 | ★ 6・- 京都人造肥料会社を紀伊郡深草村に設立。【紀伊郡誌】 この年 ● 森林法改正されて火入制限強化。《日本》 |
明治45年 | ★ 1・- 紀伊郡深草村の京都人造肥料(株)・製造を開始。【府農会報233】 ▲ 4・4 府、林業奨励のため各郡・各農会において植樹を行なうものに対しその実行成績を調査し植樹奨励補助金を交付。【日出 4・5】 この年ごろ ★ 熊野郡では人造肥料の施用いちじるしくなる。【熊野郡誌】 |
表3は、その明治期の年表部分から、当時の植生景観の状態やその変化に関連があると思われる主な箇所を抽出したものである。その表からわかるように、明治21年(1888)までは、植生景観の変化と関係のある重要な事項としては、山地・山林の保護に関するものが大部分を占める。また、官林関係として別の分類としたものも、明治前期(明治9年)についてはその内容は森林の保護に関するものである。
その時期の森林保護に関する事項のうち、表の記述からもう少し具体的内容がわかるものとしては、森林伐採の制限・禁止(明治5年、9年、13年〈7・13、12・-〉)、(年のあとの〈 〉内の数字は月日を示す。“-”は日が不明であることを示す。以下同様)、草刈・採草の制限・禁止(明治11年〈2・-〉、15年〈9・6〉)、砂防に関係するもの(明治6年、13年〈1・19〉、15年〈2・8〉、17年〈7・7〉、19年〈10・11〉)、山野への火入れを規制・禁止するもの(明治7年、11年〈2・-〉、13年〈7・12、12・15〉、16年、21年〈3・-、3・29〉)などがある。これらのことからだけでも、とくに明治前期の頃、淀川流域を中心とした京都府内の山地・山林の荒廃が大きな問題となっており、山地・山林の保護が急務の課題であったことをうかがい知ることができる。
一方、明治23(1890)年以降は、明治30(1897)年の砂防法および森林法の公布など、山地・山林保護に関する事項も引き続き一部に見られるが、明治21年(1888)までとは大きく変わり、植林に関する事項が大きな割合を占めるようになる。その具体的な内容としては、明治23年(1890)の「天田郡細見村の長沢又三郎、スギ・ヒノキ5万本を植栽」といったものから、明治40年(1907)〈4・3〉の「改正森林法公布」まで、個人から国のレベルまでのさまざまなものがある。
ただ、表の記述からは具体的内容がわかりにくいものもあり、また表の記述により具体的内容がある程度わかるものについても、その詳しい内容については知ることができない。それについては、典拠文献を確認する必要がある。たとえば、表の最初の事項である明治4年(1871)2月の「山地開拓につき制限」は、『京都府布令書』 から下記のような内容であることがわかる。
一 新規山々開拓之儀ハ宜シク土地之善悪ヲ察シ其有益ニ属スルモノハ畑園之類総而四方ニ畔ヲ構へ専ラ土砂之溢漏ヲ可防事
一 古来官許ヲ受ケ開拓致シ候畑園之類其溢漏之土砂ヲ防キ候儀前条同断ノ事
一 兀山之分ハ(旧幕中年々定手入有之並ニ鎌留ト唱ヘ候場所々々)旧制之通大小樹木下草等伐取候儀ハ孰レモ土木司立会巡廻之節可及差図事
一 石々炭等之類ヲ掘出シ候節ハ予メ崩出スル土砂之防ギヲ付ケ其掘限リ候跡ハ修治厳重ニ可整事
一 川添山々樹木ヲ截伐スル等旧制之通総テ官許ヲ経可申事
右之通郡中無洩相達スル者也
これにより、この布達は、新たな山地開拓において畑とするようなところは、すべて四方に畔をつくり土砂の流出を防ぐこと、また古来官許を受けて開拓していた畑の類も、同様に土砂の流出を防ぐことなど、砂防が主な目的であったことがわかる。表3中には、明治前期を中心に一見して砂防に関する事項とわかるものが少なくないが、このように典拠文献を見ると、さらに砂防関係の事項が多いことがわかる。
あるいは、山野への火入れ制限・禁止は砂防とも関係のある面もあったが、山野への火入れ制限・禁止について書かれた文書の原文を見れば、それはむしろ森林保護を目的とした場合が多かったことがわかる。たとえば、表3中で最初に山林野への火入れ制限に関する事項が現れる明治7年(1874)3月の布令もそうした趣旨のものである。その全文は『京都府布令書』から下記の通りである。
地方ニ寄火入抔ト唱へ茅野秣場等肥饒之タメ枯草ヲ焼候儀有之往々右ヨリ火勢蔓延官私山林へ焼込候儀不少不都合之次第候条以来右火入致シ候節者其都度区戸長ヘ為届出不取締之儀無之様管下村々へ厳重可申付此旨布達候事
明治七年三月二日 内務卿 木戸孝允
右之通達有之候条管内無洩相達するもの也
明治七年三月 京都府知事 長谷信篤
このように、この布令は、内務卿木戸孝允名での通達を、京都府管内に達したもので、茅野や秣場などを維持するために枯れ草を冬季から春先にかけて燃やす野焼きが、しばしば官林や私有林の火災につながるため、火入れの際にはそれぞれの村の戸長へ届け出ることを強く求めたものであった。しかし、その布令にもかかわらず、無届けで火入れをする者があったため、その後も何度も火入れに対する規制が行われ、その流れは明治後期にかけて一層強くなっていった。
また、明治12年(1879)2月6日付の布達は、年表の記述だけでは内容がよくわからないが、その典拠文献である『京都府布令書』の記述(下記)から、それが植林を奨励したものであることがわかる。植林に関する事項が増えるのは明治後期であるが、これにより明治前期からその動きが始まっていることがわかる。
植林ノ義ハ方今ノ急務ニ付既ニ樹木ナキ官有ノ山野ハ官民部分ヲ以テ仕付方布達相成候程ノ場合ニ於テ人民私有地若クハ共有ニ係ル地処ノ内荏苒荒蕪ニ委スルカ如キモノ有之候テハ不相済事ニヨリ今般人民適宜ノ部分ヲ立荒地仕付方別紙之通条例取設候条此旨相心得至急施行可致候事
右之通管内無洩相達者也
明治十二年二月六日
京都府知事 槙村正直
明治後期に入ると、表3中の多くの植林関係の事項からも、スギ、ヒノキを中心とした植林がかなり盛んになっていったことがわかる。
このように、『京都府百年の年表』とその典拠文献から、明治期における京都府内の植生景観変化の背景にあった主なものとして、砂防事業の推進、山野への火入れ制限・禁止、植林の推進などがあったことがわかる。
そのうち、砂防の推進については、少なくとも江戸初期以来長年にわたる淀川流域における山地荒廃とそれに伴う砂害の問題に対処するため、明治4(1871)年以降に大々的な砂防事業が展開されることになった。砂防については、京都府内ではとくに明治前期を中心にその関係の布令が多く出され、樹木の伐採や採草のなどに制限が加えられた。また、とくに山地荒廃の目立つところではそれらの作業が禁止された。このような砂防に関する動きは、その後のハゲ山の減少、山地の植生量の増大、樹木の高木化などにつながっていったものと考えられる。
一方、やはり明治初期からなされた山野への火入れ制限・禁止も砂防と関連があった面もあるが、それはむしろ森林の保護や拡大を目的とした場合が多かった。京都府内では明治10年代より、火入れに対する規制がかなり強くなされていたことがわかるが、その流れは明治後期には一層強いものとなった。この火入れ制限・禁止は、それにより既存の森林の保護にもつながったが、それは採草地などとして存在した草原の減少、またその一方での森林の拡大にもつながっていったものと考えられる。
また、明治初期より植林の奨励がなされたが、それは山野への火入れ制限・禁止などで支えられることにより、明治後期にはしだいに盛んになっていった。そうした植林により、とくにスギとヒノキを中心とした人工林がしだいに増えていくとともに、その一方でススキ草原や柴草地などが減少していったものと思われる。
このように、『京都府百年の年表』とそのもととなった京都府の行政文書を中心とした明治期の文献から、その時代の植生景観変化の背景にあったものがかなり見えてくる。しかし、たとえば明治以降、京都府内の砂防は比較的順調に進み、今ではかつては珍しくなかったハゲ山もほとんど見ることができないが、砂防は江戸時代においても幕府の大きな関心事であり、さまざまな試みがなされてきた。それが明治以降比較的順調に進んだ背景には、植生景観に関わる直接的な政策や技術的なものだけではなく、資源や交通をめぐる状況の変化など、近代化に伴うさまざまな変化の影響があったのではないかと思われる。ここではそれについての評価はできなかったが、植生景観変化の背景にはそのようなこともあると考えられる。
(2)樹幹解析からの考察
古写真や文献や旧版地形図の考察などから、明治期の頃には今日では見ることができないような樹高が低い森林が多く見られたものと考えられる。京都近郊でも、ふつう比較的樹高が高いことが多いアカマツでさえ、明治中期の頃は森林の樹高がせいぜい5m程度までのものが多かったものと思われる。
そうした今日では考えられないようなかつての森林の状況は、地表の落ち葉までもさかんに利用されるようなかつての里山の利用とも大いに関係があったように思われる。すなわち、地表に腐植が少ないために水分や養分の乏しい林地では、樹木の成長は近年に比べ緩やかであった可能性があるが、当時の森林の樹木は実際にはどのような成長をしていたのだろうか。
ここでは、京都市の北部、左京区岩倉において長く里山として利用されていた民有山林で1990年代後期から数年間に枯死したアカマツ古木の樹幹解析、またそれと比較するために行った同地域の比較的若齢のアカマツの樹幹解析から、かつての植生景観の背景の一因について考えてみたい。なお、これについての詳細も別途まとめたものがあるが(小椋 2005、2009)、以下はその要点を記したものである。
調査地
樹幹解析を行ったアカマツ古枯木があった場所は、京都市左京区岩倉の北東部(図5 北緯35°5′8.48″、東経135°47′36.26″付近)である。そこは人里にかなり近い山地の下部で、比較的平坦なところである(写真10)。その付近は1990年代頃まではアカマツが多く見られたが、今ではアカマツの割合はかなり小さくなっている。現在の植生の主体はヒノキであり、その他にコナラやアベマキなどが高木層を占める。その森林の樹高は約20m前後である。
方法
樹幹解析を行ったアカマツの古木および比較的若齢の樹木(各5本)は、人里から近い山地下部の同一地域(比較的若齢の樹木は古木のあったところの約50~200m北側)に生育していたもので、古木(樹齢約120~130年)は枯死後数年以内のものを2000年から2003年にかけて伐倒した。2000年には、N1、N2、N3と名付けた試料木を3本、また2002年にN02、2003年にN03と名付けたものを1本ずつ伐倒した。それらの試料木の位置は図5に示す通りである(点線楕円内の小点部)。また、比較的若齢のアカマツは41~45年生のもので、2005年から2006年にかけて伐倒し、pn05a、pn05bなどと名付けた。
それらの試料木から、基本的に1mごとに樹木円板を採取した。それらの樹木の樹高は約15~19mである。なお、ここでは試料木の基部からの長さを樹高とした。基部からの長さは、厳密には樹高ではないが、試料としたアカマツ古枯木は、すべて比較的直立かつ通直であったため、基部からの長さを樹高としても実際の樹高と大きな誤差はないものと考えられる。
採取した樹木円板は、かんなで削った後にサンダーで表面を磨き、年輪幅測定用の線を中心部から最大で4方向に引いたあとにスキャナで読み取った。古木については、枯死後数年を経た木が多いために、腐朽や虫食いにより中心部から4方向に測定のための線を引くことのできる円板は多くはなかった。そのような円板では3~1方向に測定用の線を引くとともに、円板の中心から周囲への平均的な長さを求め、それによって年輪幅の測定値を調整した。
年輪幅はパソコン上でDataPicker(インターネット上で自由にダウンロードできるシェアウェア)またはDendroMeasure(下記SDAの作者が作成したソフトウェア)により1年輪ごとに測定した。その結果をSDAで使えるようにExcel上で整え、樹幹解析図をSDAで作成した。SDAは「Stem Density Analyzer」の略で、樹幹解析の手法を用いて樹幹の容積密度分布を解析することを目的としてつくられたソフトウェアである(Nobori et al. 2004)。SDAにより、1年輪ごとの図とともに、5年輪ごとの図も作成した。一方、SDAとExcelにより、各試料木の樹高変化と1年ごとの材積(樹幹体積)増加を示すグラフも作成した。
なお、古木の枯死年については、枯死後さほど多くの年月を経ていないとはいえ、その年が定かでないものがあるため、それぞれの樹木の晩年における年輪成長のパターンを比較することも含めて、その枯死年を特定した。その年輪成長パターンの検討には、それぞれの樹木の下部の円板を5層用い、その平均値を使用した。
結果と考察
古木の年輪成長パターン(図6)から、それぞれの試料木の枯死年は、N1とN2が1997年、N3が1999年、N02とN03が2002年と考えられる。なお、伐倒時の枯死木の状態やそれぞれの樹木円板の状態から考えられる枯死年は、N1が1997年頃、N2が1998年頃、N3が2000年頃、N02とN03が2002年頃であり、年輪成長パターンから考えられる枯死年とほぼ一致する。
各試料木から採取した樹木円板の年輪幅の測定をもとに、それぞれの樹幹解析図を作成した。たとえば、図7、図8は、N1の1年輪ごとおよび5年輪ごとの樹幹解析図である。なお、図7の解析図最下部に小さな空白域があるのは、樹木を最下部(0m)から伐倒することができず、最下部付近の年輪データが欠落しているためである。また、図9と図10は比較的若齢のアカマツであるpn05aとpn05bの1年輪ごとの樹幹解析図である。
一方、樹幹解析をもとに、試料とした古木の樹高変化をまとめると図11のようになる。そのうち、成長初期(主に明治期で図11の左下方、薄灰色の四角で示したところ)の部分を抜き出したのが図12のグラフ下方のN1からN03の部分である。図12には41~45年生の比較的近年成長を始めた比較的若齢樹の樹高変化も示した(グラフ上方の点線部。その平均値は凡例では“近年平均”とした)。また、図13には古木の材積の年成長量の推移(平均値)と比較的若齢の樹木5本の材積の年成長量の推移を示した。
これらの結果から、アカマツ古木の成長速度は明治期の頃は概してかなり遅く、発生年を特定、あるいはほぼ推定できる4本の樹木(N1、N2、N02、N03)については、樹高が2mに達するのに21年から28年(平均で約25年)、樹高が3mに達するのに28年から35年(平均で約31年)、5mに達するのに39年から47年(平均で43年)もかかっていることがわかる。また、それらの樹木では、目通り直径が10cmに達するのに、52年から69年(平均で約59年)もかかっている。これらの試料古木の成長速度は、同地域の比較的若齢のアカマツの成長速度などと比べても非常に遅いものである。
なお、発生年が1870年代中期から1880年代中期とやや幅広く推定されるN3については、その発生年がもし1880年代中期であれば、樹高が5mに達するのに20年足らずということになり、成長速度はさほど遅くはない。しかし、その発生年がもし1870年代中期であれば、その年数は30年近くということになり、検討した試料木の中では例外的に成長速度が速いとはいえ、近年の一般的なアカマツの成長速度と比べるとかなり遅いということになる。その可能性の方が高いことは、同一地域のアカマツは、自然発生の場合、発生年が近いことが多く、他の古木の発生年は1870年代のものが多いことからも考えられる。
ここで検討した樹木が、それらが成育していた付近の森林における最高木層の樹木であったかどうかは定かではないが、典型的な陽樹であるアカマツの樹種特性から考えると、そうであったものが多い可能性が高いと考えられる。もしそうであれば、今回樹幹解析を行った古木の生育していた付近におけるかつての森林樹高は、たとえば明治中期の1889年(明治22年)では、せいぜい1mあまりであったと考えられる(樹齢は8年から15年程度)。また、明治末の1912年(明治45年)では試料木の樹高は約3mから7.3m、平均で約4.6mであった(樹齢は約30年から40年)。N3のように、やや成長の良いアカマツもあったが、明治末年でも平均的には森林の樹高は5mにも達していなかった可能性が高いと思われる。
こうした樹幹解析から見えてくる明治期の森林の状態は、当時の文献などから考えられる京都近郊における里山の森林の実態をよく示す一例として見ることができるように思われる。この例がどの程度一般的であるかどうかは、類似の研究例が乏しく定かではないが、この例は明治期頃の京都近郊において主要な樹木であったアカマツの成長の際だった遅さを示すものであり、それがかつて比較的低い森林が多かった背景の一つの要因となっていたことを強く示唆するものである。
身近な里山からアカマツがほとんど姿を消してしまっている現状では容易なことではないが、京都近郊などで生育したさらに多くのアカマツ古木の樹幹解析がなされれば、かつての京都近郊などの森林の樹高や樹木の成長速度の実態はより明らかなものとなり、ここでの考察の正しさ(あるいは問題点)もより明らかなものとなるであろう。
文献一覧
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- 小椋純一(1992)明治中期における京阪神地方の里山の景観 京都精華大学紀要 第3号: 157-181
- 小椋純一(1996a)明治中期における琵琶湖疎水沿線の植生景観 京都精華大学紀要 第10号: 127-152
- 小椋純一(1996b)植生からよむ日本人のくらし 雄山閣出版
- 小椋純一(2003)明治期における京都府内の植生景観変化の背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第105集: 297-317
- 小椋純一(2005)京都近郊山地の里山に生育したアカマツ古木の成長履歴 京都精華大学紀要 第29号: 115-135
- 小椋純一(2009)京都近郊におけるアカマツとコジイの近年の成長について 京都精華大学紀要 第35号: 143–162
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- 京都市電気局(1940)琵琶湖疏水及水力使用事業 京都市電気局
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- 京都府立総合資料館歴史資料課編(1985)京都府立総合資料館所蔵文書解題 京都府立総合資料館
- 田邊朔郎(1896)水力 丸善
- 田邊朔郎(1920)琵琶湖疏水誌 丸善
- 沼田眞(1991)滅びゆく日本の草原 図書12月号: 52-55
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- 山下孝二(1915)大和大観 三有社
- 山田達夫(1975)明治前期京都府林政史資料 日本経済史研究所
- 陸軍文庫(1881)兵要測量軌典 陸軍文庫
- 陸地測量部(1900)地形測図法式 陸地測量部